教育福島0166号(1992年(H04)10月)-048page

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図書館コーナー

 

郷土ゆかりの作家たち

−県立図書館−

 

ふくしま文学のふる里発見事業が、県教育委員会の新規企画としてスタートし、当県を舞台とした文芸作品とその作家たちについて現在、調査が進められています。

ところで、福島県出身の文学者と言いますと若松賤子、中山義秀、草野心平など著名な人物がたくさんおりますが、文学史上に名を残し文芸事典にも記載されているほどの業績をあげている作家でありながら、さまざまな理由によって当県ゆかりの作家としては、これまでほとんど知られていない人もいるようです。その中から数人を選んで紹介してみたいと思います。--新たな光がこれらの不運な作家たちに当てられることを願いつつ。

 

小泉鉄(こいずみ・まがね 明治十九〜昭和二十九)は、旧制会津中学の第十一回(明治三十八)卒業生白樺派の小説家として活躍しました。東京帝大哲学科に学びましたが、考えるところがあって中退、創作の道に進んで武者小路実篤に接近しその思想に共鳴。『白樺』の同人に加わり、同誌終刊に到るまで小説・戯曲・詩・翻訳・評論・美術紹介等に健筆をふるい、大正中期からはその編集にも参加しています。長編自伝小説『自分達二人』『三つの勝利』は連作となっており、真摯な独自的自己小説、濃密な青春譜に愛と悲劇と希求を打ち明けた作品として高く評価され、彼の代表作とされています。

その後、鉄は社会主義に傾倒して労働運動に関わり、晩年は孤独な境遇のなかで自由人として振るまい、人知れずひっそりと世を去りました。白樺時代の華々しい活動にもかかわらず、彼の名が埋もれてしまったのは、その晩年の不遇に一因がありそうです。なお、会津中学第七回卒で慶応義塾大学医学部教授の小泉丹(まこと)は、鉄の兄か類縁者ではないかと推測されます。先日、東京の映画会社から鉄の顔写真の所在について県立図書館に照会があり、探すのに苦労しました。

井土霊山(いど・れいざん 安政六?〜昭和十)もまた、忘れられた漢詩人と言ってよいでしょう。姓が井上とミスプリになっている本をよく見かけるぐらいですから。しかしながら、昭和四年に改造社から刊行された『現代日本文学全集』三十七巻には彼の漢詩が収録されているのはもちろん、北原白秋と名を並べて「明治大正漢詩史概説」を執筆しており、当時はかなり高名な漢詩人であったようです。彼は原町の生まれで本名和田経重、仙台師範学校を卒業。二十二才の若さで原町市の小学校長に任命されましたが、自由民権運動に身を投じたために退任して上京、ジャーナリストとなって『大阪毎日新聞』『山陽新聞』等、各地の新聞社で活躍しました。

霊山は『新作詩自在』『新漢詩作法』などの著書を残しておりますが、書画の方面にも明るかったらしく、雑誌『書道及画道』の編集に当たり、後に『詩書画』を創刊しています。なお、彼は同郷の先覚者で『将来之東北』という名著の著者として知られる半谷清寿の重要な協力者でもありました。

山内秋生(やまのうち・しゅうせい 明治二十三〜昭和四十)は、南会津郡只見町出身の児童文学者で、近代日本における児童文芸の振興に功績のあった人ですが、やはり忘却されてしまった作家の一人です。彼は十五歳の時に小説家を志して東京へ飛び出し、児童文学界の大御所巌谷小波の書生となって、創作の修練に励みました。子ども向けの雑誌に次々と力作を発表する一方、少年文学研究会や童話作家協会の結成にも参加し、当時のおとぎばなし的な童話を越えた新しい童話の創作を目ざすグループのリーダーの一人として、大いに貢献しています。

童話を創作する心がまえを問われた秋生は、「自然と精神の美を求める心だ」と、すぐに答えたと伝えられていますが、昭和二十一年に出版された『父のふるさと』は、そのような彼の信念が反映した短編集で、故郷奥会津を舞台とした作品も収められています。没後、只見ペンクラブの機関誌『芽』第2集が追悼特集を組んでおり、秋生研究の貴重な文献となっております。

 

その他、滝根町出身の作家田村樹(しげる)、明治三十年代に当県に生まれたこと以外は、経歴のよくわからない幻の女流小説家藤島まき等、今後の調査が期待される豊かな文芸の人脈を福島県は擁しているのです。

 

 

 


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