教育福島0167号(1992年(H04)11月)-026page
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身は大きなリュックを背負って車付きの航空バックを引いている。
「これ全部この人のか?」
と聞いたらさすがにみんなゲラゲラ笑い出してしまった。T先生がそれを通訳してくれて青年も笑った。
結局、買い物袋を持った一人のおばさんに会って助けてもらった。おばさんは親切で、すぐ近くの自分の家から電話をかけてくれた。家の外で待っている間、生徒たちと青年はのんきに「ユールックヤング」「ユーハンサム」などと英会話をやっている。楽しそうだ。
「ちょっと、通じたわよ!誰か出てあちらさんも英話なのよ!」
コードレス電話を持っておばさんが外に飛び出してきた。
青年は我々一人一人と握手をし、送るというのを断り、さっきの荷物を残らず一人で持って友人が迎えに来てくれるという場所に向かった。後ろから見ると青年は見えず荷物だけが歩いているように見える。
青年と別れたあと、再び東京の残暑が我々をつつんだ。
(福島県立湯本高等学校教諭)
天山文庫と川内
永嶋啓一
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「福島県双葉郡川内村という阿武隈山脈の中の過疎村には、天山という壮大な名前の小さな文庫があり、祭りがあり、心平さん家(ち)の池もあって毎夏このまわりを怪しい手振りで踊る鬼たちがいた…」これは天山祭りに参加した詩人財部島子の「天山文庫」という詩の一説である。
天山文庫は木造真壁造りで屋根は茅茸、玄関には『天山』と書かれた川端康成の扁額が掲げられている。蔵書約五千冊が酒樽で造された書庫等に納められ、十三夜の池と名づけられた池を中心に約八十種の樹木におおわれており、四季折々の美麗と静寂につつまれている。特に五月の新緑、十月の紅葉の美しさは、仕事と時間に追われた生活をしていた私
の心に安らぎを与えてくれるものであった。
厳寒の頃、天山文庫で草野心平の秘書の方と村の教育次長さんと私の二人で、元気であった頃の草野心平や川内村の話に一時を過ごしたことがあった。そこは草野心平が在ったときと同じように、囲炉裏には薪が焚かれ、自在鍵に吊り下げられた大きな鉄瓶はシュンシュンと音をたて、正面には心平愛用の座布団が置かれている。熱っぽく心平の魅力を語る二人の言葉と、囲炉裏の温もりに包まれながら、非常に心地良い数時間を過ごすことができた。
川内村は山村特有の閉鎖的な面もあるが、反面、異文化を柔軟に受け入れる懐の広い風土を持っている。現在、もりあおがえるで有名な平状沼の近くには琵琶仙人が住み、いわきとの境近くには模(ばく)原人を自称する自然指向の人々が生活していることが何等不自然さを感じさせない。年に一度の天山祭りには全国から集まった人達と村民が酒を酌み交わしながら草野心平の思い出を語り明かす。
草野心平は『天山南道は絹の道、東西文明の交わった道』から『天山文庫』と命名し、“この文庫がシルクロードであって中央とみちのくの出会と融通の希い”を込めたものであったという。二年間の村での生活を通して、川内の人と風土は私に無言のうちに“新しい出会と融通の姿”を教えてくれた。
十月の中旬、久しぶりで訪れた紅葉の天山文庫は、昨秋と同じ静けさで迎えてくれた。
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(いわき教育事務所指導課指導主事)
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