教育福島0167号(1992年(H04)11月)-036page

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て再スタートした。

昭和四十五年の第十回展までの会場は、中合・山田・ツタヤの各デパート、県商工会館ホール等を転々した。昭和四十五年、待望の県文化センターが完成し、翌昭和四十六年の第十一回展から、会場は県文化センターに定着し、今日に至っている。

第十回展より、出品点数が二〇〇点余となり、四十八年の第十三回展には三〇〇点を越し、昨年の第三十一回展においては、七六〇点余となった。

この間、昭和五十年、五十五年、そして五十九年の、第十五回展、二十回展、協会創立三十五年という節目節目に会員の記念作品集を発刊した。

また、昭和六十三年、第二十八回展の折には、中国ハルピン市の書家との「日中友好書展」を併設開催し本協会からも、五十点の作品を送りお互いの友好を深め合った。

初志を貫き、小品展(六〇×九〇センチ)の継続は、芸術書道の入門者をつくり、本県書道界の底辺拡大に寄与し、今では、県内は勿論のこと中央での活躍者も多きに至っている。

出品点数の飛躍的増加と共に、質的向上も顕著となり、本年第三十二回展より、機構の改革に踏み切ることになった。

その第一は、審査員の輪審制、第二は、二年連続不出品の場合は、資格を失うこと(理由があれば考慮)。第三に、審査会員の事務分担ということである。

今日に至るまでの故人を含め、多くの先輩各位のご苦労、ご努力に対し、深甚なる感謝の意を捧げます。

 

第31回福島県書道協会展

 

第31回福島県書道協会展

 

「福島県現代俳句連盟」

会長 伊東松風

 

「福島県現代俳句連盟」は、昭和三十四年、当時の福島県文学賞の選考機構とその経過及び結果が、戦後十数年の日本の俳壇の、加速度的に進歩変転する趨勢に背を向けて守旧的でありすぎる点に、不満を爆発させた県内の進歩的俳句作家三十四名が結集して、藤村多加夫・鈴木守箭を中心にして十月十五日に結成された。

さらにそれを広く県下及び中央俳壇に訴えるために、機関誌『曠野』(芭蕉七部集の「あらの」を「こうや」と現代読みにした)を創刊して「福島県文学賞を真に価値あらしめるために」「福島県文化人先輩に訴う」(藤村多加夫)等々の論旨を発表した。

それは、昭和三十六年に中央の現代俳句協会が分裂して俳人協会が創立されても、中央の動きに左右されず、結社の域を越え両協会の垣を越え、現代に生きる人間の感覚で俳句を勉強しようとする人間を糾合して今日に至っている。

その後、昭和三十七年度の「第十九回福島県文学賞」から、中央文学界からの選考委員を加えることになり、俳句部門には加藤秋邨氏を迎えることで地方の因習を脱却し、全国的水準による選考制度の確立を見た。従って一応『曠野』創刊の第一義目的が達成されたことにより、昭和三十八年十二月、「第一期曠野」を整理し、その反省と展望の上に「第二期曠野」を発足させた。以後主要目的を「自戒と内部研鑚」に絞り、『曠野』を連衆の道場として県内俳壇の文学性の向上に寄与する姿勢を貫いている。

機関誌『曠野』は、その清記に「一、“曠野”は現代俳句が喪失しようとしているゆたかさを求め合い、芸術の真を追求する努力を続ける人々の集まりである。」「一、“曠野”会員たる資格は作家の経歴や力量によるものでなく、文学の真髄と現代性を追求する情熱と努力によって認められる。己れを克服する厳しさに耐えて作句を続ける人は、誰でもその資格を有するものとする。」と掲げてあり、精鋭主義ではあっても超結社の場としての使命を守り続けているが、昭和四十八年、代表者を藤村多

 

平成3年度第3回地域古典研究会

 

平成3年度第3回地域古典研究会

 

 

 


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