教育福島0168号(1993年(H05)01月)-025page

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五里『夢』中

志村充代

 

の『夢』がまちがっているよ。」四月、学級開きの生徒の第一声がこれだった。

 

「先生、学級通信の題の『五里夢中』の『夢』がまちがっているよ。」四月、学級開きの生徒の第一声がこれだった。

指摘した生徒を誉め、なぜ『五里霧中』が『五里夢中』になったのか、説明をすることにした。

「中学三年生として、今年は進路を決定しなければならない大切な年。その進路を決めていくのは、自分の夢に近づく一歩でもある。その歩みを進める行く手には、深い霧が立ちこめ、全く見えないこともある。けれどみんなで助け合い、夢中で突き進んでいけば、かならず夢に到達することができる。その指針として、学級通信を発行していきたい」-−と。私の意気揚々とした気持ちとは裏腹に、初対面での不安な面持ちは変わらず、ざわめきは一向に静まらない。学級通信の数枚は床に置きざりにされたり、机の中にもみくちゃに突っこまれたりしている。さっきまでの意気込みも心なしか虚しく響き、暗澹(たん)たる気持ちになってきた。新任地での生徒との出会いは暗中模索--まさに五里霧中だった。

当初、私は生徒の心情、実態をよく理解せず、一方的にコミュニケーションを図ろうとしていた。多くの言葉、より多くの文字が、人間関係を創造していくものだ、と。

そんな折、戦前のある名士の逸話が載せられていた文章が目にとまった。

彼は岐阜に講演に招かれた。悠然と壇上に表われた彼は、演卓の前に立ったが、口を開かない。黙って満場の聴衆を見わたしている。聴衆は磁石に吸いよせられたように壇上の講師を見ている。長い長い、空白と緊迫。実に、一時間が経過した。講師は、やっと声を発した。--「諸君!諸君は若いうちに勉強しておかないと、将来、このわが輩のように人前で話もできなくなりますぞ」

これだけで、講演は終わった。人を食っているとも、言語を用いないで講演と言えるかとも、批判はいろいろできる。が、ここで考えさせられるのは、コミュニケーションは、言語を超えたものの存在で裏打ちされている、という事実である。

音声や言葉を通して「伝える」時には、伝えるつもりのないことまで「伝わる」のだと知らなければならない。知識・教養・英知・愛情・人徳--言語を超えた全人格が伝わるものなのだ。

超言語的存在の重みを痛切に感じ、日々のコミュニケーションは試行錯誤の連続である。最近、床に置きざりにされることが少なくなった学級通信に、言語を超えたものを伝えたいと、只今、『五里夢中』である。

(郡山市立郡山第四中学校教諭)

 

隣りの芝は

高橋雅彦

 

だ。「落ちてもいいか?よし、その高校にチャレンジしろ」と言えることを…。

 

「福島はいいよね。」前任校、神奈川の公立中学の同僚の言葉である。福島では中学浪人が認知されていることをさしているらしい。神奈川では過年度の受検がほとんど認められていない。また中学2年終了時にアチーブメントテストなる一斉テストが課せられ、その結果は、高校入試の際の合否判定資料の三割を占め、調査書の五割と合わせると、学力検査の比重が軽くなってしまう。従って、学力検査での冒険が困難となり、中学の進路指導は過年度生を生まないための、「どこかに押し込もう」スタイルとなる。つまり学力検査の前に七割の資料で、生徒の振り分けをすると同時に、中学校側が高校のランク付けをするのだ。それが、先の中学校の当時者のジレンマのセリフとなったのである。私もこの方式のため、生徒の意志を無視せざるをえず、その度、故郷福島を羨やんだ。「落ちてもいいか?よし、その高校にチャレンジしろ」と言えることを…。

一方、「神奈川はいいよね」福島での同僚の言葉である。神奈川の生徒の学力レベルの高さを言っているようだ。まさに、「隣りの芝は青い」のである。福島ではアチーブメントテ

 

 

 


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