教育福島0169号(1993年(H05)02月)-019page

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夢を追った日々

永野恒之

 

より児童生徒をもつ各家庭でも、これまで度々話題にのぼってきたことだろう。

 

「学校週五日制」が始まり、はや五ヵ月が過ぎようとしている。この制度について、学校はもとより児童生徒をもつ各家庭でも、これまで度々話題にのぼってきたことだろう。

私の勤務する学校でも、当然のことながら、職員会で共通理解を図ったり、PTAの会合の席で保護者への理解を求めたりするなど、さまざまな努力を重ねてきた。

さて、この制度が始まってからというもの、休み明けの月曜日には、子どもたちがどんなことをして過ごしたものかと毎回楽しみに教室に出向いて行く。だが、学級の子どもたちの反応は、私の期待する「自然体験」や「社会体験」とは残念ながらかけはなれたものばかりである。

子ども一人一人の発表を聞きながら相づちを打っている私の頭の中は、まわりからやらせられていることに慣れ切ってしまっている子どもたちの現実と、子どもたちの個性や創造性の芽を伸ばせないでいる現実をどうするかということでいつもいっぱいになっている。

「教師として私にできることはなんなのだろうか。」

こんなことをとりとめもなくぼんやりと考えている時、私は自分の小学校時代をよく思い出す。

小学校時代の私は、簡単に言えば「猛烈なSLファン」であった。(現在もそれは変わっていないが)「三度の飯より好き。」とまでは言わないが、当時ほとんど見られなくなった蒸気機関車を追いかけて、会津の山奥はもちろんのこと、山形県や宮城県にまで、友達とカメラを片手に汽車に乗って出かけて行った。

いきおい週末はその計画立案に費やされた。土、日の度に時刻表を持って友達の家に集まっては「ああでもない。こうでもない。」と相談が繰り返された。それでもあきたらず、しまいには学校に時刻表を持ち込み、授業中に各自計画を練っては休み時間に持ちよって相談するありさま。担任の先生の目を盗んで(実は先生は知っていた。)できあがった案が、「朝四時に出発、夜中の十一時半到着。」というとんでもない計画であった。(小学生なので日帰りを原則としていたが。)

行き先で出会った様々な出来事を今も忘れられないでいる。冬の会津では降りしきる雪の中で友達と二時間も蒸気機関車を待ったことや少ない小遣いなのでぜいたくができず、昼食のパンを友達と分け合って食べたこと、見知らぬ土地を地図を頼りにさまよい歩いたことなど、今考えてもはらはらするようなことがたくさんあった。よくぞこんなムチャクチャな旅行を毎回許してくれたものだと両親や担任の先生に感謝している。

私の小学時代と今とでは、子どもたちを取り巻く環境が大きく変化していることは間違いのない事実である。しかし、小学校時代の私がそうであったように、今の子どもたちも夢中になれるものが見つかれば、土曜、日曜の休み明けの月曜日、目を輝かせながら自分の体験を私に話してくれるにちがいない。そのような夢を追いながら、これから子供たち一人一人が夢中になって取り組めるものを見つけ出してほしいと思っている。

(安達町立渋川小学校教諭)

 

無限の可能性

稲沼正雄

 

準決勝の壁に阻まれ、ハンドボールの指導に迷いが出始めていたころであった。

 

中学校のハンドボール指導に携わり十一年目が過ぎようとしているが、本校五年目の平成二年度は、とりわけ印象に残る年であった。その年まで過去四年間、県大会準決勝の壁に阻まれ、ハンドボールの指導に迷いが出始めていたころであった。

しかしその年は、例年になく個性的で素質のある男子生徒が揃い、県新入大会で念願の初優勝を果たし、この分だと来年も優勝できるだろうと誰もが安易になり出していた。

油断大敵、冬場の練習でも充実感のない練習が続き、そのころからしだいにチームとしてのまとまりが希薄になっていったようである。

そんなチームに追い打ちをかけるように、チームのキャプテンでポイ

 

 

 


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