教育福島0170号(1993年(H05)04月)-024page

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ような赤から、冬のほとんど黒にちかい紺青まで、色彩が織り成すあらゆる色を見せてくれます。又、秋から冬の夜の海に広がる漁り火には、胸が締め付けられるほどの切なさと華やかさがあります。

海を背景にした勿来の関の四季折々の風情のなかで、一番すばらしいのはやはり桜の季節です。

ご存知のように里桜は先ず花が咲き、落花の後に若葉となってゆきますが、山桜は赤褐色の新薬と白色の五弁の花が同時に開きます。里桜には明朗な華やかさがあり、山桜には清楚で、しっとりとした上品さがあります。山道などで、緑の木々の中でひっそりと咲いている山桜の、凛とした美しさに出会ったときの驚きは、また格別です。

春。今年もまた、新入生が桜花の校門をくぐる季節となりました。彼等のすべてが、なにかしらの期待と夢を持って入学してくるわけですが周辺校と言われる学校には、それなりの悩みがあります。彼等の高校生活の目的が非常に多様であり、その対応に我々教師は非常に苦慮しているわけです。無事に卒業してほしいという低次元の問題から、就職・進学に及ぶ高次元までのことにまで関わってゆくという難しさです。進学校のように生徒の目的が一様ではないところに、たいへんさと面白さがあるのかもしれません。

我々にとって、桜の季節は卒業という別れの後にくる心躍る出会いの季節でもあります。また、学校というのは別れの日に向かって毎日あくせくと心を悩ましている小集団のちっぽけな世界でもあるわけです。そして、来年こそもっとすばらしい桜に出会いたいと思いながら頑張っている世界でもあります。でも、そんなちっぽけな世界が、とてつもなく素晴らしいと思うことがあります。

(県立勿来高等学校教諭)

 

桜の花の散る頃に

関場弘子

 

「先生、木曜日の男が来たよ。」

 

「先生、木曜日の男が来たよ。」

同じ病室の患者が言った。

かなり前のこと、私がアキレス腱断裂で入院していた頃のことであった。「木曜日の男」というのは、もう既に卒業していたが、私のクラスの生徒のこと。彼は白血病を患い、毎週木曜日に通院加療をしていた。同じ病院ということもあり、たびたび私の病室を訪れてくれたのだ。

「先生、今日、バナナのうまそうなのがあったから買ってきた。食べてナイ。」

「先生、この本、なかなか面白いから、先生も読んでみないがい。」

「先生、この前、こんなことがあったんだよ。」などと、差し入れや情報を提供してくれた。

彼が中学校の卒業式を迎えた日、式場から出てくる彼の目は、涙でうるんでいた。

卒業文集に、彼は、次のように綴った。

「一年前は、病気のことで頭がいっぱいだったので、気持ちの整理がつかなかった。しかし、いろいろ考えた結果、もう一年がんばろうと決めた。」

彼は彼なりに考え、結果を出した。再修を希望し、再び三年生として、私のクラスに入ってきたのだった。

しかし、病気が病気で、思うように学校生活を送れなかった。体格がよかったので柔道部に所属していたが、ほとんど練習できず、体育館の隅で友達の練習を見ていた。そんな彼の背から、一緒に運動できない悔しさを必死にこらえているのが感じとられた。同級生や私の励ましの言葉も空しく、彼の力になりきれないもどかしさのみが残った。

体調が良い時には、病気のことを忘れ、見学をしているはずの柔道をやったり、友達と跳び回ったり…ということもあった。

「あの時、無理をしなければよかった。あの時の母の苦労を考えると涙が出てくる。」と綴っている。

「泣きたい時、死を考えた時もあった。それを乗り越えた今、よりよい社会人になりたいと思う。人生は長いのだから、一年くらいどうにでもなるだろう。体さえ健康ならば…。」と結んでいる。

白血病との闘いの中で、彼は卒業を迎えた。自分の意志で再修を希望し、晴れて卒業を迎えたこの感動が涙となったのだろう。

卒業後、彼は地元の工場に就職した。終日勤務は無理ということで、工場長の深い理解のもとに、彼独自の勤務時間により仕事に精を出した。そして、毎週木曜日の通院加療を続けた。

桜の花が散る頃、彼は十九歳という若さで逝ってしまった。

この頃になると、私は決まって「木曜日の男」を思い出すのである。

(国体局競技式典課)

 

 

 


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