教育福島0170号(1993年(H05)04月)-027page
犬を飼う話
菅井一良
会津若松市に心身障害者親の会が運営する授産所「愛の里」がある。その施設を訪れた娘が、大原所長さんから大変興味深い話を伺ってきた。
その施設では一匹の犬を飼っているそうである。その犬を飼ってから施設のみんなはそれまで以上に実に生き生きとしてきたというのである。「犬はかわいいよ。帰りを待っていてくれるもの。それに仲間ができたという感じかな。でも最も大きな理由は、生活に楽しみができたことだと思うな。」とは娘。
しかしそれだけではないだろう。今まで世話をされることの多かった立場から、世話をする側への転換。立場の転換は、施設のみんなが「私達を必要としている」という有能感を感じとったからではないか。そして、それは自分自身の存在を確認することにもなり、生きがいをもつきっかけになったのではないか。
「犬の世話は大変だが、世話をされるだけよりは気持ちがいいよ。」と、更に娘は言う。
さて、私の家でも犬を飼っている。飼い主は長女である。学校から帰ると重い中学校のカバンを背負ったまま犬小屋へ直行する。犬のロンにはその気配がすぐに分かるらしい。クーン、クーンと鳴き声をたてて娘を出迎え、ころんとあお向けに寝ころぶ。体をなでてほしいと甘えているのである。また、散歩に行きたいときにはキューンキューンと実に甘い鳴き声をたてながら落ち着きなく歩きまわる。娘はそうしたロンの要求を表情から汲み取り、ロンの満足のいくまでつきあっている。あまりおつきあいのない次女には、実にそっけないロンであるが、長女にだけは表情豊かに反応する。相手が動物でもこれだけ慕われれば娘も悪い気がしない。私が面倒みなければと自分の存在をより強く意識し、ますます愛犬ロンの母親役に努めるのである。
大原さんの話といい、娘の様子といい、相手はたかが動物であるが、子どもの心は大きく満たされ、活力が確かに培われている。いかなるときでも、私たちはそこに自分の存在を見い出せば、自らの意志で主体的にかかわろうとするのではないだろうか。
大きく変動する社会の中で、今年も新学期がはじまった。「動きたい」という子ども自身の意志がなければ教師によりよく動かされても、自分の力とはなりにくい。子どもを「動かさなければ」と焦る私の心に、娘の話は大きな警鐘となった。
(喜多市立第一小学校教頭)
ふる里の自然への愛着
徳永清子
やわらかな雨がかわききった庭に潤いをもたらし、木々の芽が一斉に目覚めるころ、幾種類もの野草が庭のあちこちに顔を出す。身をかがめて視線を落とすと、ナズナ、ハコベ、オオイヌノフグリが可憐な花を咲かせている。「あぁ、もうこんなに伸びて。」ついと伸ばした手が思わず止まる。以前の私なら、そのままむしりとっていただろう。
現在の学校で、ふる里の自然に愛着を深めようと、創意の時間を活用して自然教室を開いている。そのガイドブックとして、地元の植物分類の専門家の協力を得て、泉崎一小が身近な野草の写真集「四季の野草」を出版した。
昨年、私は一年生を担任していた。学校生活に慣れてきたころ、「四季の野草」を手にした子供たちと校地内の野草探険に出かけた。名前のわからない野草がそこここにかわいらしい花をつけていた。早速、写真と見比べながら調べ始める。やがて、「あった、あった。」と大喜び。名前がわかって、俄然興味がわいてきたのか、野草調べに熱が入っていった。この日、子供たちが名前のある野草として意識したのは、オオイヌノフグリ、ナズナ、ノボロギクなど七、八種類。
春の遠足も自然に親しむ絶好の機会となる。道々、知っている野草の名前をあげたり、珍しい花を摘んだりと自然に親しみながらの楽しい一日となる。ツクシ、チドメグサ、レンゲソウ、淡紅色のヒメオドリコソウの群落が子供たちの目をなごませてくれた。このころになると、子供たちもだいぶ野草の名前を覚え、「薄いピンクの花をいくつもつけた野草