教育福島0172号(1993年(H05)07月)-009page
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にあたって考えさせられることしきりである。浅川町が生んだ吉田富三博士は、「人は自らがつくるべきだと思います」と、言い切っている。
その三、今年四月から六月にかけて開催された県立博物館の企画展は、明治はじめて物語-石井研堂と『明治事物起原』-であった。民間の研究者として、「研堂以前に研堂なく研堂以後に研堂なし」とまで評された石井研堂が、実は、本校に学び且つ教員としても勤めておられたことを知り認識をあらたにした次第である。博物館の学芸員のお話によると、研堂は、後に理科読み物の執筆など科学的分野へもかなりの情熱を傾けたということであるが、その契機となったのはどうやら、小学生時代に体験した実験的な授業にあったのではないかということである。それは、研堂自筆の履歴書の中の「一、明治十二年六月化学物理器械参観ノ為福島師範校ニ至ル」の一行によって裏付けられるようである。
現在、履歴書の学歴といえば、ほとんどが学校の入学や卒業についての記録として、いわゆる学校歴になっている。ところが、明治時代の履歴書を見ると、もちろん、学校歴も記録されているが、そのほかに、自己の人生を方向づける程の学習事項は、学習歴として自らの判断で記録していた様に思われる。ちなみに、明治二十五年、教員として本校に勤められた、かの、朝河貫一博士の履歴書には、「一、明治二十年十月ヨリ蒲生義一氏ニ就キ英学ヲ研究ス」と記されている。
(著者紹介)
大河内宏通・おおこうちひろみち
昭和九年 田村郡二瀬村(現・郡山市)に生まれる
三十一年 福島大学学芸学部卒業
四十五年 福島大学教育学部附属中学校教諭
四十九年 福島県教育庁県中教育事務所指導主事
五十二年 郡山市立郡山第二中学校教頭
五十三年 福島県教育庁義務教育課指導主事
五十五年 郡山市立海老根小学校長
五十七年 郡山市教育委員会指導主事
五十九年 福島県教育庁県中教育事務所管理主事・次長
六十三年 福島県教育庁いわき教育事務所長
平成二年 郡山市立金透小学校長
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