教育福島0172号(1993年(H05)07月)-025page
と、コンピュータにくわしい先生から「人に教えてもらうのもいいが、生徒達と一緒におぼえた方がいいですよ。」とアドバイスを受けた。そこで、最初の操作だけを教えていただき、さっそく全学年で取り組ませることにした。
生徒達にとっても音楽の授業でコンピュータを使うのははじめて。私同様、それぞれの顔に期待と不安が入りまじっているのがよくわかる。
二人一組になり曲作りがはじまる。あらかじめ、リズム創作をしているのでそれをもとに曲をつけていく作業である。もちろん、全体の流れに応じてリズムを変えるのは自由である。生徒達は好奇心おう盛。次々と操作をおぼえ、「先生、ここをこうやるとこうなるよ。」「なるほど、すごいなあ。」逆に教えられる事の方が多い。
生徒達にとって、この授業の利点は、並べた音符をすぐに曲として聴けることである。自分が今、どんな音楽を作り上げているのかおもしろいようによくわかるのである。
「先生、早く来てこの曲聴いてください。」
「先生、名曲でしょう。」
「先生、ここはどうしたらいいですか。」
わずか一小節でも聴いてほしいのかあちらこちらからおよびの声がかかる。いつもは、あまり活動していない生徒も目を輝かせ、一生懸命取り組んでいる。お互いに協力し合い、認め合いながらがんばっている姿は活気に満ち、とてもすばらしい。
完成した曲は、発表会を開き、ひとりずつコンピュータの演奏により鑑賞する。よい作品には、「おお」「すごい」「きれい」など感嘆の声があがる。また、プリンターを利用し楽譜として残すことにしている。
生徒の感想にも、
「世界に一つしかない自分の曲が作れてうれしい。」
「作曲というのは、自分には縁のないものと思っていたが、身近に感じるようになった。」
など、喜んでいる姿が見られる。
作品の中身は決してすばらしいものばかりではないが、全員が、「できる」「わかる」ということが意欲を高める最も重要な事だとあらためて感じさせられた。
(西郷村立西郷第一中学校教諭)
タラの芽採りに思う
渡邊勝雄
「貧乏なおじさんの家へ行くより、春の山へ行け。」と中国のことわざにあるように、春の山には食べることのできる山菜がたくさんあります。
連休の一日、娘といっしょに山菜採りにでかけてきました。
山に入って驚きました。どこの山もタラ(タラノキ)の木がのこぎりやナタで切り倒されていました。切り倒された木の中には、けなげにもその先の新芽を伸ばしているものもありました。が、タラ木は切られてしまうとほとんどは枯れてしまいます。
タラの芽採りで、「タラの芽を採りたかったら秋の山を見ておけ。」と教えられたことが、とても役に立っています。タラの木は、炭を焼くためやシイタケのほだ木を作るために雑木林を切り倒した所に多く生えています。そして、直立しているので、木の葉がない時期には、はっきりとそれと分かるのです。これは、タラの種子は日光の当たらない所では発芽しにくい特性があるためです。発芽した芽は、素晴らしい成長力で、太陽に向かって真っすぐに伸びます。タラの芽は、発芽して三年目頃から十年目頃まで収穫できます。それ以上年月がたつと、周りの雑木が成長して日光を遮るため、タラの木は枯れてしまいます。しかし、日光が十分当たる場所では成長を続けます。
新しい教育観に立って、個性を生かす教育の充実を目指さなければならない今、私にはタラの木の成長と子供たちの成長がオーバーラップされ、よく似ているように思われるのです。
新採用三年目、四年生を担任したT教諭は、A夫のことで頭を痛めました。注意力散漫で学習に集中できず、いたずらが絶えない。厳しく指導しても、その時だけになってしまう。T教諭は悩んだ末、前担任へ相談し、「絵をかかせたら」と言われて思い当たりました。確かにA夫は絵を描く時は目を輝かせて取り組んでいたのです。T教諭は、A夫の得意な絵を媒介にしてA夫との触れ合いを増やしていきました。A夫は次第に構図や混色にも興味を示すようになり、一枚の絵に根気強く取り組むようになりました。A夫の作品が、秋の造形展に入賞してから、A夫の生活にも変化が見られ、自分から物事に取り組むようになりました。
タラの種子が自ら伸びようとする