教育福島0174号(1993年(H05)10月)-027page
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(浪江町立浪江中学校教諭)
Jリーグ雑感
遠藤哲叶(のりやす)
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「先生、Jリーグのチケット、手に入りませんか。」こんな電話が、あちこちの教え子から何度かかかってきた。私ごときに手配できるはずもないのだが…。
それにしてもスタートしたばかりのJリーグの盛り上がりは驚くばかりである。多少なりともサッカーに関わってきた者としては、遠来の夢が実現に向かって一歩踏み出したことに胸膨らむ思いである。
二十五・六年前だろうか、六年生の子供たちを十数名引き連れて国立競技場へ三国対抗サッカーの試合を観戦に行ったことがあった。スタンドはガラガラで、 ハーフタイムに子供たちが走り回っていたものだ。ところがテレビで観るJリーグは何処も溢れるばかりの観衆でスタンドは埋めつくされ、まるでヨーロッパの試合を観ているようだ。まさに昔日の思いである。
その頃の「いわき」は、小学校は勿論、中学校、高校にさえも一つぐらいしかサッカー部はなく、県内ではサッカー不毛の地と言われていたのである。だから、指導を始めるにはサッカーを知ってもらうことからの出発であった。
ボールを蹴るだけの概念からボールに触れて親しむことへ脱皮させねばならなかった。初めは「ボールと仲良しになろう。」ということをテーマに、足でボールに慣れ親しむことで思い通りに扱う喜びを体験させることであった。自分の意のままにボ−ルを操れるようになった者は、間違いなくサッカーのとりこになったのである。そのためには、自由にボ−ルに触れて遊ぶことであり、動きを導き出すことであった。
サッカーが子供たちの遊びの中に受け入れられるようにと考えたこともあった。野球は完全に遊びの中に存在していた。キャッチボールをはじめ、三角ベースをしたり、ボールを打ったら木に触って戻ってくるだけで楽しい遊びの時間がすごせたのである。サッカーも三角ベース的な存在になったとき、世の中から支持されるスポーツになるだろう。そうなることが私の夢でもある。
スタンドが湧き上がるサッカーのおもしろさは、高度な技術で表現される意外性のあるプレーである。それは、的確な判断力で状況を把握し守備者のイメージ(勿論、観る者のイメージも)を超える手段と方法でゴールを奪おうとするとき、観衆はみな心打たれるのである。プレーヤーの判断力、創造力、表現力が感動を与えるのである。Jリーグにこの感動があれば新しい文化として認められる日も近いと思うのである。
(いわき市立小名浜第三小学校教諭)
「学校を離れて」
佐原崇彦
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私が福島県文化センター遣跡調査課から、久々に学校に戻ったのは昨年のことである。センターでは調査員を務めた。調査員の約半数が教員からの出向者である。毎週、県内各地に四泊五日の出張をする。これが、四月から十二月まで続くので、半ば単身赴任の三年間でもあった。
現場で実際に上を掘るのは、作業員である。六十〜七十歳代の人が多く、調査員一人に従業員が十五〜二十人程の割合になる。したがって、多数の年配者と私たちだけの、親子ほど年代差がある奇妙な職場が現出するのである。そして、調査員の半分が教員であることを作業員の多くは知らない。これが今思えば、私にとって大変大きな意味を持つことになった。つまり、作業中や休憩時に色々彼等と会話が弾んだり、或いは彼等だけのおしゃべりが聞こえてきたりする。内容は様々であるが、やはり自分も含めた家族や他人のうわさ話が主である。そして、学校・教員のこともしばしば登場してきた。戦前・戦時中に尋常小学校や高等小学校を終えた人が大半と思われるが、当時の先生方の厳しさ(怖さ)と、孫たちの先生方の比較もよくされていた。「俺たちの頃は学校で悪さをすると、先生に頭を一発ごつんとやられて、それで終わりだった。親もそれが当然だと思っていたし、却って親にも叩かれたものだ。」など
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