教育福島0174号(1993年(H05)10月)-029page

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という教師冥利に尽きる大きな夢がありました。

さて、その方法をどこに求めようかと思った時、私が高校時代に教わったK先生のことがすぐに思い浮かびました。K先生の指導方針というのは「自由」でした。自分のことは自分でやること、つまり、自分で考え、自分で行動すると言うものです。私はその教育方針に共鳴し、生徒たちに「優しさと粘り強さ」をサッカーを通して植え付ける事にしました。

三年生になり、夏休み前の猛烈な練習後にキャプテンが突然やって来て「先生、M君の事ですが、今度の試合に五分でも十分でも出場させて下さい。三年生のM君はこれまで一度も試合に出た事がないのです。このことは三年生部員一同のお願いです。」と訴えるばかりであった。私は「今度の試合には三年間の厳しい練習の全てをかけている。お前たちの気持ちはわかるが、どうなるか考えさせてくれ。」と返事をしました。私自身も悩み考えました。勝敗を優先させるか、生徒たちの気持ちを優先させるかと。

試合の当日、先発メンバーを発表した時、彼の名前を呼びました。真面目に努力した者が報われない、そんなことがあっては何かが間違っている。私の気持ちは既に決していました。そして彼の顔を見た時、緊張感の中にもその目は何かを決心したかの様に輝いていました。 一・二回戦と勝利し、準決勝も逆転勝ちを収め、いよいよ決勝戦へと駒を進めました。サッカー部創設十年目、初の決勝戦進出で生徒たちも緊張していました。苦しい戦いの展開でしたが初優勝の栄冠を手にすることができました。最後に決勝点をあげたのがキャプテンであったと言うのも何かの因縁かと思われました。笑っている部員は一人もなく、皆が涙していました。多分、今までの苦しかった練習や、何度も決勝進出を阻まれてきた悔しさなどが、彼たちの脳裏をよぎった事と思われます。

A工業高校のY先生が祝福の声をかけてくれた時、私は涙がこぼれないように、しばし空を眺めていました。会津に転勤して以来、弱いチームの時代から常に練習試合の相手をしていただいたY先生には、いつか恩返しをしたいという思いがやっと実現できたのです。地区大会の小さな優勝ではありましたが、私と生徒たちにとっては大変に価値のある栄冠でした。キャプテンが「先生、俺たち、これで胸を張って学校に帰れる。」と言った言葉がいつまでも心に残った。M君は試合終了後、「皆、ありがとう!」と言ったまま下を向いて、その後は言葉になりませんでした。しかし、チームの仲間にとっては、その一言だけで十分でした。

友達とはどうあるべきなのか。人間とはどうあるべきなのか。この事を通して、私は生徒たちに教えられたような気がします。

今、冷静に教育とは何かと自問自答した時、どんな場であっても生徒とともに感動することではないかと、おぼろげながら感じることができたことに、自然に喜びを覚えました。

小さな学校ですが、いつか何かはできると信じて生徒と共に挑戦してきた三年間でした。今も、毎日の生徒たちとの出会いに感謝しつつ過ごしています。

(県立喜多方商業高校教諭)

 

漸進

−歩幅は小さくても−

星健一

 

「やっぱり高校にいってよかったよ、先生。毎日が楽しくて。」

 

「やっぱり高校にいってよかったよ、先生。毎日が楽しくて。」

元気な話し声は、この春に卒業したばかりの女子生徒である。友達や部活動についての近況を笑顔で話しかけてきた。まさに元気はつらつ、明るい高校生の姿がそこにはあった。

実は、この卒業生は、中学校時代に長欠生徒であった。 一年半ばから欠席が目立つようになり、二年になってからは連続して休む傾向がでてきた。担任を中心に解決の手立てを講じた結果、二年の三学期になってようやく改善の兆しが見え始めたものの、三年に進級してからも度々欠席は続いた。欠席の理由としては、「腹痛」や「発熱」があげられていたが、自我の未発達による「集団生活不適応」というのがその真相と考えられた。

本人への援助を重ねていくうちに少しずつ変化が見られるようになった。自分の不登校の原因を他人のせいにして、その非を責めることが多かったが、相手の立場や気持ちを考え、自分の欠点も見つめられるようになってきた。即ち、物事を多面的にとらえられるようになってきたのである。また、「学校を休まないようにしたい」という気持ちはこれまで以上に強くなってきた。そこで、自分が目指す姿を考えさせながら、自律的な行動への意識を高めるように

 

 

 


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