教育福島0175号(1993年(H05)11月)-026page
た。
特にA先生は授業を参観させて下さったり、教材を準備して下さったり、夕食にもよく誘って下さいました。A先生の授業の進め方は素晴らしく、今でも参考にさせて頂いています。また、夕食を食べながら教師として大切なことを教えて頂いたことは、現在も私の教訓となっております。
その中で、今でも印象深く残っていることは他の部活動を見学した時のことです。私はその部活動の顧問がいるにもかかわらず、得意になり自分で指導してしまいました。後で、A先生にその時のことをきつく注意されました。顧問の先生の立場や指導法の意味を考えず、軽はずみな行動をした自分がはずかしく、次の日その先生にお詑びしました。そして、三人で夕食会をし、何をするために教師になったのかとか、部活動のあり方について議論したことは決して忘れることができません。
今でこそ一人前の教師のつもりで指導にあたっていますが、今考えるとはずかしいことばかりです。もしA先生との出会いがなかったら、自己本位な視野の狭い教師になっていただろうと思います。
人生には、数多くの出会いがあり、その多くは偶然なものです。だが、その出会いで自分の生き方、考え方が決定されることがあります。今日知りあう人と、一生つきあうようになるかも知れません。
そう考えると、出会いを大切にしなくてはいけないと強く思うと同時に、感謝したい気持ちでいっぱいになります。また、生徒にも出会いの大切さを教えたいと思っています。
(小野町立小野中学校教諭)
出会いが人生を…
若松敦
“光陰矢の如し”というが、月日の流れは過ぎてみれば本当に早いものである。教師生活を始めて、もう三十余年が経過した。
折にふれ、ふとこの道を選択した動機を考えるときがある。そんな時高校時代のクラス担任だった一人の先生がなつかしく思い出される。
当時クラスに女子は四名しかおらず、異性を気にせずのびのびとしたクラスであった。しかし、それがために担任には、相当迷惑や心配をかけたことがあったような気がする。
厳格で定評のあった先生だったが筋道の通った厳しさであったので、反発はあまりなかった。むしろ生徒思いの先生で、一人ひとりの性格を的確に把握し、長所を引き出して指導してくれた。
一方、級友には大勢の運動部員がおり、各種大会で活躍したことは、校内に誇れるものであった。特に野球部には正選手として七名がいた。野球少年だった私もその中の一人であった。先生は、よく試合場に足を運んで応援してくれた。
また、こんなこともあった。高三の春季選抜野球大会で、せっかく優勝したものの、プロコーチ問題で、県大会に出場できなくなったことがあった。すっかり沈み込んでいた野球部員を陰に陽に励まし善導いただいたことは、苦い思い出と共に忘れられない。先生のお陰で全員非行に走ることなく学業を続けることができたといっても過言ではない。
いよいよ進路を決める時期になった。両親は教師になることを望んでいたようであるが、私は就職を希望していた。ある時、先生は次のような助言をしてくれた。「就職はいつでもできる。しかし、勉強には時機がある。大学を受験してみないか…。」と。本当に短い言葉ではあったが、何故か自分を進学へと気持ちを変える動機となった。野球づけの毎日を送っていたので、受験をするなら試験科目の少ない私立をと思っていたが、福大を受験してみてはとの先生の助言があった。先生の言葉に両親は大変喜んだ。
それからの先生は、忙しいのにもかかわらず、放課後数名を半強制的に残し課外授業を始めた。
先生は自分が言ったことに対し責任をもち、次に自分は生徒に何をしてやらなければならないかを常に考えていたように思う。
幸いにして合格でき、かつ教師になれたが、先生に出会うことがなかったら、自分はこの道に入ってなかったのではないかと思う。まさに「人との出会いが人生を変える」と我が人生をふりかえり実感している。
時代の変化とともに、教育の難しさが叫ばれている昨今である。心の豊かさ、美しさをもてる生徒の育成のため「人との出会い」の大切さを説き続けていきたい。
(福島県立富岡高等学校教諭)