教育福島0175号(1993年(H05)11月)-027page

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子供の輝く瞳に励まされて

 

植頭由佳

 

ょう。私の元へ近寄って来なかったらどうしょう。」という不安がよぎった。

 

「四年二組」、今日からここが、私の教室だ。教室の戸に手をかけたとき、「もしも子供たちが、私に話しかけてくれなかったらどうしょう。私の元へ近寄って来なかったらどうしょう。」という不安がよぎった。

思い切って戸を開けた。すると、そこには瞳を輝かせ、勢いよく私に走り寄って来る何人もの子供たちの姿があった。

子供たちから「先生」と、初めて呼ばれたとき、何とも言えない感動を覚えた。それは、先生という仕事に幼いころから憧れ、やっとその夢が実現した嬉しさと、これから教師として、この子供たちのためにがんばらなければならないという責任感を感じたからかもしれない。

さっそく子供たちとの生活が始まったが、何もかもが初めての経験ばかりで、戸惑いの毎日が続いた。

家庭訪問の時期になり、訪問する順序を決めることに取り組んだ。しかし、子供の家をさがそうにも、地名や場所のわからない私は、なかなか決められず困ってしまった。翌日そのことを子供たちに話すと、さっそく私が開いている日程表を指差しながら、兄弟関係や訪問しやすい順序を考えながら、手際よく決めてくれた。

また、初めての授業研究の日。前日から眠られず、緊張のあまり教室へ向かう足どりは重かった。

自分では教材研究も十分に行い、資料の準備も整え、授業をするだけであるのに……。

発問の仕方、支援の仕方等、どれをとってみても不十分であったが、子供たちの活躍で何とか終わることができた。

これまでの生活を振り返ってみると、子供たちに助けられたことはあっても、私から子供たちのためにしてあげたことは、ほとんどなかったかもしれない。

二学期も半ばを過ぎ、「このままじゃいけない。こんなにも私を慕ってくれる子供たちのために、子供たちの願いに応えられるような教師にならなくては。」と強く思い始めた。

そこで考えたことは、授業を充実することと、子供たちとふれ合う時間をできるだけ多く持つということである。

学校が楽しく思えるのは、学習することが楽しくなることである。子供たちにその楽しさを味わわせるために、更に研修を深め、子供一人一人の思いや願いをかなえてあげられるよう支援できる教師を目指したい。子供とともに遊び、語り、学び合いながら、子供たちの輝く瞳を心の励みとして、一層努力していきたい。

(楢葉町立楢葉南小学校教諭)

 

流れの中で

 

伊藤英雄

 

分に言い聞かせるように言って励ましたっけ。ずいぶんと時の流れを感じる。

 

教職に就いて三十年、子供たちとはこの両腕に抱えきれないほどの出会いと別れを積み重ねて来た。今年の盆にクラス会があった。「先生、あの時の言葉が忘れられません。」と言いながら寄ってきた子供がいた。大きい目のくりくりした子である。「いいか、いっか必ず“芽が出る”あきらめないで頑張れよ。」高校生になるこの子に、自分に言い聞かせるように言って励ましたっけ。ずいぶんと時の流れを感じる。

「もう何時だと思ってんの。」女房の声に我にかえる。言われれば釣りの準備に大分手こずったものだ。後片付けをしながら老漁師の話を思い浮かべ心を引き締める。「いいか、しょっちゅう食うわけじゃない。食うだけ食うと食わなくなる。だから引いたり押したり、餌を変えたりしながら好寄心を与え、積極的な誘いをせよ。」という教えである。あたかも釣りは釣り糸を通して地球と会話をするようなものだ、とも言った。それぞれの道に師はいるものである。

寝床に就く。明日の天気は、風は、どこでどの仕掛けを、どんな餌がベストか等全体の流れを予想しながら事前の分析にイメージトレーニングは広がっていくつなかなか寝つけない。するときまって思い出されることがある。まだ若い時分の釣りのある日のひとこまである。

竹ざおを操って舟を進める。自然との会話の瞬間に、思わず顔がほこ

 

 

 


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