教育福島0175号(1993年(H05)11月)-028page

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ろぶ。風が舟をなでるように吹き抜け、右に左に揺れる舟首を立て直す。しばしの沈黙、ふと自分は子供たちにとって、はたして良い船頭であり、またあったのだろうかという自責の念にかられる。突然川セミが頭上をかすめた。その瞬間ボラは川セミの餌食となり朝もやの中に消えた。「観察を怠るな。災害は忘れないでやって来る。」と言った偉大な先輩の顔が水面に出る。糸が絡み思うようにいかないでいると、「答えは身近にあり。」と教えてくれた。思うようにいかないのは子供も同じと身近な存在として教えてもくれた。子供がガラスを割った時、廊下で走って来た子供とぶつかった時など、「君はその時どう答えるか。」と尋ねられ困った。返答に窮して赤面しながら、子供の側でなく一方的な見方をしていた己の倣慢さと未熟さを思い知らされたことが忘れられない。また、一人前になった気でいると、「勉強に近道なし。」、あきらめようとすると「好きになれ。」と叱られもした。教師としての心得、自覚、使命感を諭す一しず<の教えが、大きな輪となって私の流れの中で今も生きつづけている。

「行ってくるぞ。」「………。」

いつもの川セミがじっと水面を見つめていた。答えは身近にある。

(いわき市立四倉中学校教諭)

 

わが恩師

 

遠藤ハル子

 

く目の前に浮かんでくる。数十年と年を重ね、懐かしさのためなのであろう。

 

春の息吹がわずかに感じ始め、吾妻山の峰に残雪の中から種まきうさぎが顔を出すころになると、決まって懐かしい小学校時代を昨日のことのように思い出す。まだ吾妻おろしが冷たく感じる早春に、真っ赤なほっぺをさらに赤くしながら、見え隠れする土の上で、元気一杯ソフトボールに熱中したあの小学校高学年のころを。五十数名の仲間と過ごした古びた教室、校舎の西側をちょろちょろ流れる小川等々、その一つ一つが懐かしく目の前に浮かんでくる。数十年と年を重ね、懐かしさのためなのであろう。

木造校舎のきしむ廊下を、皮のサンダルの音とともに、「あいやあ、こいんなば、しかあだねなあ、この娘。」と、だんだん近づいてくる声が今でも耳に響いてくる。この声の主こそ五・六年の担任であった恩師「島貫」という女の先生である。年のころ四十歳前後であったであろうか。隣の県の出身で、なまりの強い話し言葉だったと記憶している。

ちょっとしたいたずらや、失敗等をすると決まってこのリズミカルな言葉が返ってくる。いたずらや失敗の内容や度合いによって口調や強さが違うのである。

この言葉は注意されているのだが、厳しさのなかにも優しさや温かさが含まれていたのである。この言葉を聞きたくて先生を困らせたり、またそれがおもしろく、みんなでお互いにまねをしたりもしたものだ。

なんといっても子どもたちを公平に扱ってくれたこと、そして善悪の区別をしっかりつけてくれていたことが、子どもなりにわかり信じ切っていたように思う。

この担任との出会いが、教師の道に進むようになった動機でもあったように思われる。現在同じ高学年を担任しているが、今の子どもたちが社会に出て数十年後に、果たして担任としての私を懐かしく思い出してくれるだろうか。その自信は一ない。

私の教員生活も残り少なくなってきたが、残された年月、一人一人の良さを見つめ、その良さを出せるよう後押しをしていきたいと思っている。子どもたちが私の年になって、「口うるさい、背の高い先生がいたっけなあ。今は、どうしているだろう。」と、頭の片すみにでも思い出してくれるように。

また、来年の種まきうさぎが出てくるころに、「あいやあ、こいんなば、しかあだねなあ、この娘。」の懐かしいわが恩師の声が聞こえてくることだろう。

(伊達町立伊達小学校教諭)

 

郷土史に学ぶ

 

根本一

 

取りをやっていた。そこに奥さんが「私も手伝いましょう。」と入って来た。

 

越後街道は……。野沢宿の学塾・研幾堂の先生渡部思斎が、田の草取りをやっていた。そこに奥さんが「私も手伝いましょう。」と入って来た。

 

 

 


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