教育福島0175号(1993年(H05)11月)-029page

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すると先生すくっと腰を伸ばし、「男女七歳にして席を同じゅうせず、汝隣田に行け!」と怒鳴り、手伝っていた門下生らをびっくりさせたという。

このような堅物の儒学者の門下から、洋学を志す門人が出た。第一号が慶応三年(一八六七一野沢難一十五歳である。彼が京都で英学を学んでいるうちに鳥羽・伏見の戦となり盲目の会津藩士山本覚馬と共に薩摩藩邸の獄舎に囚われた。ここで山本は有名な『管見』を著すのだが、その口述を筆記したのが野沢だった。山本は、この一書によって後に京都府議会議長や商工会議所会頭となり、また妹八重子の夫・新島嚢の同志社大学創設に尽力する。一方の野沢は明治十一年(一八七八)米国エール大学に学んで法学士となり、各地の裁判官を経て、後に義兄の星亨(逓信大臣と共に銀座に弁護士事務所を開きながら藩閥政治に抵抗した。

第二号は、思斎の長男渡部鼎である。彼は明治五年十四歳で横浜高島英語学校に学び、同十九年、米国カリフォルニア大学医学部入学、ドクトルの学位を取って同二十二年父の死によって帰国、若松に会陽医院を開いて野口英世の火傷の掌を手術したのは有名で、衆議院議員を二期勤める。

明治六年、この鼎と同年の石川暎作がやはり横浜高島学校に学ぶ。彼は経済学を志して慶応義塾や共立学舎で学び、同十九年、アダム・スミスの大著『国富論』を日本で初めて完訳するのである。その間、彼は木村熊二の明治女学校創設の中心的存在として活躍し、また盟友渡部鼎と共に婦人束髪運動を展開、夫人に日本で初めての束髪を結わせて東京街頭を共に腕を組んで闇歩した。しかし無念にも、彼はこの完訳の年四月に天折した。二十八歳の若さだった。

吉田松陰の松下村塾の門下生らは多くの血で維新を成し遂げたが、この研幾堂塾生らの、自由民権家の山口千代作や小島忠八は弾圧で自分の血を流しこそすれ、多くは人の血を見ずに近代明治の創造に力を尽くした。

だが、あの堅物の思斎門下からなぜこうした開明的人材が輩出したのかと思う。これはひとえに、思斎がいわゆる「腐れ儒者」ではなかったということと共に、この少年らの父兄も日本近代史の到来を理解していたからであろう。そして、その遠因は、少年らを育んだ郷土が文物の交流に頻繁で、時代の変化の情報がいち早く伝えられた街道宿駅であったからだと考えられるのである。

(西会津町文化財調査委員長)

 

平成五年度

 

教育・文化関係表彰式

 

六百五十名、十四団体・施設を表彰

 

かぐわしい菊の香りが漂う文化の日に、平成五年度教育・文化関係表彰式が福島県文化センターで盛大に開催されました。

表彰式には、中川治男副知事、大和郭二県教育委員長をはじめ多数の来賓者の臨席のもと、文化功労賞受賞者である三本杉國雄氏・佐藤浩氏、各種功労者、同団体・施設、公立学校永年勤続教職員等の表彰受賞者等六百余名が出席しました。

式典は午前十時、山下総務課長の開式の辞、新妻威男県教育委員会教育長の式辞に続いて、中”副知事が「皆様の輝かしい業績に敬意を表します。二十一世紀の本県のために今後もご活躍ください。」とあいさつして、受賞者を讃えました。続いて大和県教育委員長が「優れた業績は、私ども県民の誇りであります。皆様方のご労苦とご功績に対しまして深い敬意と心からの感謝を申し上げます。」とあいさつを述べられました。

次に表彰に移り、文化功労者には中丸副知事より、各種功労受賞者等には新妻県教育長より表彰状と記念品が贈られました。また、併せて第四十六回福島県文学賞の表彰も行われ、詩部門で見事文学賞に輝いた和合亮一氏と各部門で準賞、奨励賞、青少年奨励賞を受賞した二十三名の各氏に新妻県教育長より表彰状と賞金が贈られました。

(なお、各種表彰受賞者、同団体・施設は本誌十月号で紹介してあります。)

 

式辞を述べる新妻県教育長

式辞を述べる新妻県教育長

 

 

 


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