教育福島0176号(1994年(H06)01月)-027page
東北大会を終えて
野内明
今年、十一月の四日五日にわたって、東北国語教育研究協議会の総会が、第一日目には柴宮小学校、二日目にはビュ−ホテルアネックスを会場に開催された。大会運営に携わった多くの先生方の御苦労には、まことに頭の下がる思いである。私自身は研究授業を受け持つことになり、運営面での苦労をしなかったので、尚更申し訳けない思いである。それはともかく、今回の授業の発表を通じてあれこれ考えるところもあり、個人的にはよい勉強の機会となった。原稿依頼を受けたので、それについて記してみたい。
今回私が発表したのは、古典文法の敬語法についての授業であった。実はこれは、大会本部から与えられたテ−マには必ずしもそうものではなかったかもしれない。中高連携の中で、入門期の古典指導において興味関心を引き出すにはどのようにすべきかというのがそのテ−マであったのだから、いきなり体系文法の授業を行うのはいわば反則ともいえるものであった。私自身、頻卑整を買うことを予想しなかったわけではない。だから勿論、それなりの工夫は施した。しかしこれは、今考えるにテ−マとの辻棲を合わせるためだけのごまかしにすぎなかったのではないかというのが正直なところである。
例えば、まず授業を敬語法学習の導入部分だけに限定した。敬語法が如何なるものか、その点にさえ関心を持たせることができればいいと考えたからである。体系文法が敬遠されがちであるのは、実生活からの乖離の甚だしさ、日常の文法感覚の欠如の故なのだから、現代語の用法と照らし合わせてやりさえずれば、そこから先は文法の学習プロパ−として授業を実施することができると考えたのである。
このような物言いが、恵まれた環境にあればこそできる賛沢であることは重々承知している。また、今回の授業が一その導入はともかくとして)ある意味では時代錯誤であることも、認めるに吝かではない。しかし、高等学校における古典教育が、単なる興味関心のレヴェルにとどまっていてよいものではないということもまた事実であろう。そうであってみれば、より正確に古典を読み解き、鑑賞するための文法は、絶対必要な道具であると考えざるを得ない。羅針盤があればこそ船を正しい方向に進めることが可能となるのである。興味関心を引き出す指導とは、結局は教員自身の人柄に帰するところあるのみというのが現在の私の結論である。
ここまで不遜なことを言えば、無論のこと己れの授業を省みざるを得なくなる。そして、温泥たるものがあるのはいうまでもない。大会を終えてはっきりしたのは、自分自身の目標であったといえるかもしれない。拙文をお読み下さった先生方の御指導御批判を仰ぎたいと切に願う次第である。
(県立郡山高等学校教諭)
T君との出会い
小林寿恵
四月、期待と不安を抱きながら緊張して迎えた始業式。どの子も素直ないい子ばかりのようでほっとしました。
ところが、始業式から三日目の授業中、T君がいきなり観察台の上に上り始めたのです。私は予期せぬ出来事に戸惑い、注意をしました。すると、まるで鬼ごっこでもしているかのように教室中を走り回るのです。それからというもの、落ち着いて席に着いているのはせいぜい一、二時間程で、何をしたわけでもない児童に乱暴をすることも度々ありました。さすがの私も堪忍袋の緒が切れ、大声を張り上げてしまいました。するとT君は、泣きながら周りにあるものにあたり始め、手がつけられ