教育福島0176号(1994年(H06)01月)-028page
なくなりました。これらの行動は、注目して欲しいという私に対する信号だったように思われます。私はそれに気づかずただ叱るばかりで、一向に進歩がなかったのです。
T君のことを知る先生が心配してアドバイスをしてくださいました。それは、T君を強く叱ることは逆効果で、誉めてあげることが大切だというのです。それからというもの、私はただ座っているだけでも、ノートを出すだけでも誉めることに徹しました。また、T君とは、「先生はT君のことが好きだから特別扱いはしたくないよ。」と、少しずつでいいから、席に着いていることをめあてにするように話し合いました。そして、毎朝頭をなでてT君を励ますように努めました。しかし、こんなことで本当に改善されるのだろうか……と不安がいっぱいでした。
するとどうでしょう。一学期の後半には、授業に参加しようとする態度が現れてきたのです。また、以前の荒々しい気持ちも変化を見せ、私に対して甘えることが多くなりました。驚くことに、自分からいろいろなことを手伝ってくれるようにもなったのです。それからというもの、叱ってももう身近なものにあたることも少なくなりました。今では友達関係に少し問題を残すだけで、とても落着いて生活をしています。
T君との出会いから、どんな乱暴な子でも気持ちを理解する大切さ、誉めることの重要性を身にしみて学ぶことができました。そして子どもたちはいろんな信号を送っていて、それには意味があることも知りました。子どもたちが落着かない時は、私に誉める余裕のない時です。子どもたちの信号をキャッチできるようにアンテナを高くし、いつでも子どもたちの気持ちを理解してあげられる教師になりたいと思っています。
(会津若松市立一箕小学校教諭)
教育実習生に学ぶ
槙和恵
今年の九月、私は、教育実習生のM子さんを指導することになった。
彼女は、これまでに四年間、日本語教師として海外で勤務した経歴を持っている。
教育実習期間中、彼女から海外の様子をあれこれ聞かせてもらったが、その中で、オ−ストラリアの教育についての話が特に印象に残っている。
まず、教育制度については、州ごとに独自の教育が行われ、教科書はなく、教師自らが教材を準備して授業を行う。また、国語、算数、社会と理科の合科的教科を除き、他の教科を実施するかどうかは、校長が決めるということである。
教材、教具を自分で開発する力もない私には、教科書のない授業など考えられないことであり、教科書一辺倒で創意も工夫もなかったこれまでの指導を反省させられた。
また、指導するに当たって、教師は、話すことを極力控え、子どもの活動時間を多くとることや、短所を指摘するより長所を見付け、ほめる指導に心がけているという。
授業については、新学習指導要領により、子ども中心の教育、個を生かす指導を重視した日本の教育活動と共通しており、そうした考え方は、国際的な流れであることを強く認識させられた。
彼女が国語の授業をしたとき、ある児童が音読をした。さほど上手ではなかったが、彼女は「上手に読めたよ。」と声をかけた。私なら「上手だけどもっと……。」と注文をつけるところだが、彼女は子どもをほめ、認めてあげる指導に徹していた。そんな彼女の授業に生き生きと応えている子どもの姿を見て、指導教員である私の方が、反省させられることが多かった。
彼女に日本の教師についての感想を聞いたとき、「学習面だけでなく生活面や道徳的な面まで指導されており大変だと思う。」と話していた。オ−ストラリアでは、教師は学習指導には携わるが、その他は個人の問題として、深くはかかわらないのだという。日本の場合、社会と個人の調和を考え、人格形成にふみ込んだ教育が行われている。これは、判断力の乏しい子どもの考え方や行動を望ましい方向に指導しようとする一方で、教師が子どものそれを規制してしまう危険性をはらんでいる。このように考えると、教師としての私のあるべき姿勢を改めて考えずにはいられなかった。
日本と外国の教育を単純には比較できないが、彼女から学んだことを、これからの教育活動に大いに生かしていきたいと考えている。
(相馬市立桜丘小学校教諭)