教育福島0178号(1994年(H06)04月)-024page
さに推し進めようとしている事業と同一の感がある。
単に、知性と思考のみを強化すると頭のみで考えがちになり先入観にとらわれたり、深く考えないで判断を下すようになって現実の社会からますます遊離して行く。経験に裏打ちされた知性と思考つまり知恵が、価値観の多様な情報化社会においてこそ必要なのではないだろうか。その経験を高校時代に与え、さらに働く意味や喜びを感じさせ、それらを通し自分の在り方、生き方を考えさせることが必要なのである。まさにそれが我が校の勤労体験学習のねらいなのである。勤労体験は学問への興味関心のバックボーンとなり、進路への自覚を高める作用をもたらす。勤労体験と学力向上は決して相反するものではないはずである。またボランティア活動により人間性の優しさに目覚め、障害をもつ人々も同じ人間として共に生きていくという心が確実に育って行くものと思われる。
この事業により、生徒の変容がすぐ目に見える形で現れることは期待過剰になるかもしれない。しかし、間違いなく人格形成の大きな糧となるであろうことは、この事業が始まってからの生徒の小さな言動の変化によって確かに知ることができるのである。
社会から遊離し、一人歩きしていた教育を再び社会と融合させる新しい教育改革のうねりを、この事業を推進する中で感じ取ることができる。
(県立坂下高等学校教諭)
一曲の演奏
佐藤秀美
最近、ピアノを習い始めた。最近といっても丸二年ほどになる。二年もかかってバイエルに毛の生えた程度である。自分の物覚えの悪さに、我ながら驚いてしまう。所詮気紛れで思いついた趣味にすぎないという自分の甘えと、別に音楽大学を受験するわけでもないのだしという教える側の妥協のなかに、首までどっぷりと浸かり動くこともできない。この体験から、教師という立場にある自分が、教わる側に回って云々等と続けるつもりはない。唯々自分のこれからに対する不安が増すばかりである。
習い始めの頃は十年も習えば一端のピアニストのように、と夢見ていた。それがこのままでは、私のピアニストとしての生命が「エリーゼのために」一曲で終わってしまう危惧を抱く。まあこんなものだろうと危惧すらなくなってきている。新しいことを始めた当初の淡い憧れが、自分の肉体的、精神的能力の限界を思い知らされる中で、失望、そして諦念へと変わっていく。ピアノだけではない。私が今まで体験した全てのことが、またこれから体験することの全てが、この流れのなかに埋没してしまうのではないか。勿論この仕事も。
一生このような思いを持たずに過ごす人もいる。稀に見る幸せな人と言えるであろうが、私には無縁な人生であるようだ。人生の三分の一程を終えた今、このような自分が限られた人生の中で、どれ程のことをなすことができるのか、漠然とした不安に駆られる。そのような不安をどうすることもできずにいる自分に対するもどかしさも感じる。
山口瞳の随筆に「一局の将棋」というものがあった。あの局面で別な指し方をしていれば勝てたかもしれないなどと後悔しても、過ぎ去ったことを消し去り、やり直すことはできない。自分が歩んできた道もそれはそれで「一局の将棋」であったというのだ。私の場合、これもまた「一曲の演奏」とでも考え、このような自分を納得すべきなのかもしれない。
この言葉を、自分の全てを肯定してくれる慰めの言葉と解釈するのはたやすい。それはそれで仕方がないと考えるようになれば何も後悔しないで済む。単に自分の不安を紛らわすまやかしの言葉ではなく、自分の気持ちを納得させるだけの、その時々での真摯な態度の必要性を説く言葉と私には聞こえる。様々な不安を抱えながらも、目の前にあることに対して、ささやかな情熱を取り戻すことが、結局全てなのか。
今年も桜が咲き始めた。明日は入学式だ。
(県立磐城高等学校教諭)