教育福島0178号(1994年(H06)04月)-025page
日本人の心を思う
菅野順子
昨年の夏、初めての海外旅行に出かけました。訪問先はイギリスです。
海外に出ると日本のことがよく分かると言います。私も、今回の旅行で、普段気づかなかった日本の一面について、考える機会を持つことができました。
イギリスは、「伝統の国」とか、「斜陽の国」とか、また「ビートルズの国」「パンク・ロックを生んだ国」とか言われ、様々な面を合わせもつ国ですが、私は、「公共の場を大切にする国」という印象を強く抱きました。それは、決して堅苦しいものではなく、他者に対する優しさが伝わってくるものでした。
旅行を振り返ってみて、まず思い出すのは街並みの美しさです。古い建物が大切に残された、歴史を感じさせる街並みの美しさはもちろんですが、それ以上に目を引いたのはあふれんばかりに咲いている花々の美しさでした。石畳の街路に、ビルディングの壁や窓に、色とりどりの花々が私たちの目を楽しませてくれるのです。
圧倒されるような色の洪水を味わっていて、気づいたことがあります。街並みを彩る花々は、外に向かって育てられているのです。自分だけのためにではなく、道行く見ず知らずの人々のために、花を育て、窓辺を飾っていることに気づきました。「他の人のために」という心遣いが、美しい街並みをつくっているのです。
その心遣いは、他の場でも思い当たりました。デパートやホテルの入り口で、先行く人は皆、次の人のためにドアを押さえていてくれます。幼い少年も、白髪のお年寄りも、耳にピアスをした青年も、笑顔で押さえていてくれるのです。
日本だったら、果たしてどうだろうか。そんな思いがよぎりました。日本人は(まず、私自身が)、どうしても内に向かって生きているように思います。自分たちのためになら花を育てるでしょう。仲間のためになら、ドアを押さえているかもしれません。しかし、見ず知らずの人に対して、自然に心遣いを示すのは、あまり上手ではないように思います。
街路に花を飾ったり、ドアを押さえておいたりすることは、決して大げさなことではありませんが、その小さな心遣いは、街角に温かいものを残してくれたのです。
これらの他者に対する小さな心遣いは、どのようにして育まれたものなのか、私は考えずにはいられませんでした。毎日、子供たちに接する一人の大人として、学校教育や家庭教育、地域社会の在り方を考えさせられた旅行となりました。
(月舘町立月舘中学校教諭)
プロを目指して
菊池勇人
「先生と呼ばれるほどの……」
ある時、知り合いから話の弾みで受けた言葉である。教師を皮肉ったというか、軽蔑した言葉である。
世間には、教師に対していろいろな意見から偏見を抱いている人たちがいる。教師を職業として選択し、一生懸命頑張っている者にとっては、はなはだ残念なことである。
人が生まれながらにして人格が備わった生き物かというと、否。例のオオカミ少年が、それを否定している。人が人となり、望ましい人格を形成できるのは、人が関わる教育以外の何ものでもない。
教育はいろいろな人間がいろいろな立場で、いろいろな環境においてできる。学校は、総合的に考えたとき最も能率的、効率的な環境を整えた場であり、教師は、その中にあって魂を吹き込む役目を果たす。
教師になりたてのとき、子どもから、また、自分の年齢の倍くらいの保護者から、そして同僚の先輩教師から「先生」と呼ばれるのが無性に恥ずかしくて、その気持ちを自分なりにどのように解釈し、納得させようかと考えたことがあった。考えてみれば、教わる側に十六年もいた人間が、全く立場を逆転してしまう訳