教育福島0178号(1994年(H06)04月)-027page

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しい空の下で、私は、ちょうど一年前のことを鮮明に思い出していた。胸がはちきれそうなほど緊張して迎えたあの朝のことを。そして、毎日が新しい発見の連続で、無我夢中で走り続けてきた一年間のことを。

不安と期待のいりまじった気持ちで、恐る恐る入った二年二組の教室。三十二人のキラキラとした目が私だけを見ていた。一年間、私はこの子どもたちとやっていくんだ、どんな子どもたちなんだろうと、胸が高鳴った。

子どもたちの中にはやく入っていきたい、その思いが私の胸の中に強くあった。その思いを抱きながら、なかなか思うように自分の気持ちを伝えられないもどかしさに、涙を流したことは数えきれない。毎日悩みに押しつぶされそうになっていた。家に帰るともう立ち上がる気力もない毎日だった。それでも、一歩教室に入って子どもたちの顔を見ると、元気いっぱいの子どもから、たくさんの元気とやる気をもらった。そして、まわりの先生方の励ましも、大きな支えとなった。

「明日は、先生、出張なんだ。」と言うと、「行かないで」と淋しそうな目をした子どもたち。私が失敗したときに、帰りにそっとやってきて「先生、失敗はね、誰にでもあるから大丈夫だよ。」と優しく言ってくれた子。牛乳が飲めなくて、涙を流しながらも最後まで頑張って、飲めるようになった子。朝、私が車から降りると、「先生、カバン持っていくね。」と私の重いカバンを教室まで持っていってくれた子。マラソン大会で悔し涙を流していた子。ふだんはいたずらばっかりしているけれど、放課後の教室で、私の膝のうえにのって、にこにこしながらいろいろな話をしてくれた子。大きな声で、朝の健康観察の時に「はい、元気です。」と言えるようになった子。みんなの前ではほとんど話せなかったのに、発表もできるようになった子。たくさんの宝物を私にくれた子どもたち。子どもたちが生き生きとしていることが私の励みとなった。子どもたちが思うように動かないとき、私は自分の力のなさを痛感せずにはいられなかった。日々、子どもたちとの生活のなかで、私はいったいどれくらいのものを学び、考えさせられただろうか。

私は、これからもこの一年間のことを決して忘れることがないであろうし、忘れてはいけないと思う。はじめて担任した三十二人の子どもたちのこと、そして、あたたかく見守り、様々なことを教えて下さった、たくさんの先生方のことも。教職二年目を迎えた今、初任者だからという甘えはもう許されない。責任という重圧を感じながらも、三年二組の三十二人の新しい子どもたちと一緒に、今までできなかったことや、新しいことに、どんどん挑戦していきたいと思っている。

(須賀川市立第三小学校教諭)

 

マイ サン・トーマス

佐藤和子

 

ト・ロゼットハイスクールと姉妹校の盟約書を交わしてから早や七年が過ぎた。

 

一九八七年九月に、石神中学校がイギリスのハローゲート・ロゼットハイスクールと姉妹校の盟約書を交わしてから早や七年が過ぎた。

一昨年の五月、ロゼットハイスクールの子供たちが来訪した時、我が愛娘の「ホストファミリーを是非、我が家へ」という切なる願いに応えて、十二歳になるトーマスという少年を迎え入れることになった。

ホストファミリーへの引き渡しが終わり、帰宅する途中、夕食の準備のために近くのスーパーマーケットへ立ち寄った。彼は先ず、いちごを選び、次に納豆のミニパックを手にとり、しげしげと見つめていた。“Do you try?”という問いに“Yes.”と予期せぬ答えが返ってきた。それから鮑の刺身と朝食用にマドレーヌを二つ、自分で選んだ。チャレンジ精神は旺盛である。

その夜、私はハローゲートから子供たちを引率してきた教師との歓迎会に出席したが、彼のことが心配であったので、終わるとすぐに帰宅した。

家族は、遅い夕食の真っ最中であり、食卓には今夜のメニューの説明や会話のやりとりのために使われた分厚い辞典が二冊、積まれていた。又、夫のそばには、絵の書かれたメモ用紙が置かれ、なんとかしてコミュニケーションを図ろうと努力した姿が浮かぶようであった。しかし、口許が笑っているところを見ると、お互いの気持ちは、十分通じたと感じた。

意志の疎通を図るため、ことばは重要な手段ではあるが、体の動きや絵などでもお互いが十分理解し合え

 

 

 


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