教育福島0178号(1994年(H06)04月)-045page

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博物館ノート

 

谷文晁筆「八仙人町」

 

本図は寛政の改革で知られる白河藩主松平定信に親しく仕えた江戸時代中期の関東画壇の重鎮、谷文晁作品。八仙には蜀の八仙・唐の八仙・漢の八仙などがあるが、本図は漢の八仙、鐘離・張果老・韓湘子・李鐵拐・曹國舅・呂洞賓・藍采和・何仙姑の八仙人を描いたものであろう。右幅、瓢をかつぐのは張果老、将軍姿の鐘離、ひきがえるを頭上に載せるのが李鐵拐。中幅は呂洞賓・藍采和・韓湘子、左幅貴人の姿は曹國舅・女生は何仙姑と想定されるが、いずれの仙人も特に奇矯な姿には描かれていない。細微な描写、三幅対の安定した構図、練達の筆法は仙人に人間らしさと品格を与えており、文政八年(一八二五)文星六二才の作品である本図は文晁人物画の代表作といえる。

文晁は宝暦十三年(一七六三)漢詩人として知られた谷麓谷の子として生まれた。麓谷は後の白河藩主松平定信の生家田安家の家臣であり、文晁と定信は生前から既に深い縁があったわけである。文晁は三十一才の時、老中職に就いていた五才年長の定信付となる。この年外国船の日本近海への度重なる出没に対し江戸湾・相模湾の巡視を行った定信に随行した文晁はその時の各所の景観を「公余探勝図」に書き残す。これ以後しばしば定信と行を共にした文晁は白河へも何度も訪れ、地元の画人たちにも影響を与えた。公私ともに松平定信と交際のあった文晁は福島県の文化を語る際に決して見落とせない画人である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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