教育福島0180号(1994年(H06)07月)-026page

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れど、穏やかで、物欲、名誉欲更になく、争い事の嫌いな父。自分は身を粉にして働いても周囲の者にそれを求めなかった父は青年時代もそうであったろう。

この作品は今西氏の体験に基づく創作であるけれど、登場人物の名は、彼の周囲の心やさしき人の名を用いたのであろう。自分は育てることができないと解っていても、赤ん坊を抱き上げる「わたし」の名として、父の名「稲毛」を選んで下さったのではないだろうか。

共に水兵であった今西氏と父は、広島の近くの町できっとめぐり合っている。そして、父の心と名を記憶に留めて下さったに違いない。けれど、それ以後私は決して、父にこの話題を持ち出さなかった。

昨年十二月、父は、入院して二日目、走る様に一人で逝った。死後、父の書棚に「ヒロシマのうた」をみつけた。「稲毛です。」と名乗ったその頁が小さく折られている。父もずっと気にかけていたに違いない。一人胸の中に広島を思い起こしていたのだろう。たとえ、今西氏に、父とは無関係であると言われてもいい。父は「ヒロシマのうた」の中に、平和を願い、永遠に生き続けている。

(いわき市立小川小学校教諭)

 

薬師寺での奉仕

増渕鏡子

 

この場をお借りして一風変わったボランティアを紹介します。

 

この場をお借りして一風変わったボランティアを紹介します。

三月三十日から四月五日まで、奈良の薬師寺で花会式という法要が行われます。花会式は、三月初めに行われる東大寺のお水取りとともに、奈良に春をもたらす行事として知られています。この行事期間中、薬師寺にはどこからともなく百人近くの子供たちが集まってきます。彼らは「青年衆」と呼ばれ、行事開催のために泊り込んで奉仕をするボランティアです。僧侶の指導の下で草をむしり、堂宇を拭き清め、数千人の客のために弁当をつくります。そしてその間、寺の生活スタイルを徹底的に教育されることになります。食事は一汁一菜で、箸のもちかたを直され、長時間の正座に耐えます。夜まで働き、朝は二時半に起きて法要に出なければなりません。現代の子供たちにこれはかなり厳しいことです。しかも驚くべきことに、彼らはほとんど仏教についての知識をもたない、普通の子供たちです。修学旅行のお坊さんの話がきっかけになった中学生、高校生。美術の見学に来てスカウトされた大学生(私のことです)。寺でだけの友達と一緒に行事をやり遂げるのがなんとなく嬉しくて、毎年大勢が集まってくるのです。

法要は一日二回、午前三時、午後七時に行われます。青年衆も眠い目をこすりこすり参加します。鐘の音とともに、ほとんど食べず眠らずで宿坊に籠っていた僧侶が入堂します。暗く、底冷えのする堂内には燈明がともり、白鳳時代の仏像の黒い肌を浮かび上がらせます。その周りには、色とりどりの薬草で染めた紙の花々がめぐらされています。これは一年がかりで奈良の旧家が手作りし、青年衆が飾りつけたものです。そして厳かに僧侶の声が流れはじめます。薬師寺の声明は独特の節回しで、法螺貝や鐘、シンバルが加わります。やがて重低音の太鼓がなり響く中、悪魔払いの呪師(しゅし)が刀を手に走り抜けます。青年衆は何時間も堂内に立ち尽くし、いつもは陽気なお坊さんの、やせ細って真剣な眼差しを見守っています。そして前日にたたきこまれた声明で法要をもりたてます。いつのまにか連子窓から若草山が見えはじめ、朝日が差し込んできています。

無事に七日間の花会式を終え、後片付けが済むと、子供たちはほっとして両親のもとに帰ります。来年も来る子、もう二度と来ない子、様々です。これが得難い経験だったことに気付くのは、大人になり、まったく仏教にかかわりのない普通の生活を送るようになってからです。そしてボランティアという名のもとに、昼夜百人からの子供の面倒をみ、ハイレベルな伝統的センスにどっぷりとつけてしまう薬師寺の心意気ににんまりさせられるのです。

(県立美術館学芸員)

 

 

 

 


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