教育福島0180号(1994年(H06)07月)-029page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

球から無数の真っ白い生き生きした根毛が四方に伸びていた。パンジーは無為に寒さに耐えていたのではなかった。来るべき春に備えて、外からは見えない地の下で生命の力を伸ばしていた。

 

先日、スーパーで、以前担任したT子の母親に声をかけられた。

小学五・六年と担任したときのT子は、スポーツが得意な明るく活発な子どもだった。ところが、中学一年後半から登校できなくなった。教室に入ると発汗し、緊張し、苦しくなるという。小学生の時の明るい姿はどこにも見られなかった。

それから、私は、幾度か自宅を訪問し、とりとめのないおしゃべりをした。彼女は、いつも、自分の現状を打開しようとして努力していた。母親もよく娘の話を聞いていた。

しかし、暗い表情は回復しないまま、自宅に閉じこもって卒業した。

しばらくして、進学せずスーパーマーケツトで働くようになったと便りを聞いた。一年後、その店で偶然会った時には、小学生とまったく同様の明るさを取り戻していた。店長も、「明るく気さくで、とてもいい子です。店でも助かっています。」と語ってくれた。

それから数年して、T子が母親を連れ立って私を訪れた。群馬県のある会社に就職することになったと語るその姿には、明るさだけでなくたくましさすら感じられた。

そのT子が、今、群馬の人と結婚し、まもなくお母さんになるというなんとも言えないうれしい近況を、母親が話してくれた。

あの暗く苦しい登校拒否の中学時代は、T子にとって何だったのだろうか。寒い「冬の時」には、何かの力をつけていたと思えてならない。

登校拒否は苦しく、ならばあってほしくない。と願う教師と親たち。しかし、その時こそ、その子どもなりに、自分らしさを模索し、力を貯えている時となっていたのかもしれない。それを保障するものは、「その子がそのままで」受けとめられ、且つ、必要とされることかと思う。

それが、悲しいかな学校は、そのままでと言いつつ、どこか「君が変わってこそ、君は伸びるんだ」と言ってしまうのかもしれない。

 

今年も、大田小の花壇には、寒い冬を過ごしたパンジーが色とりどりに咲き競っている。

(保原町立大田小学校教諭)

 

体験を通して学んだ生活科

長澤文子

 

スイカを作ることになった。でも、畑は僅か一坪程の狭い土地しかなく、私は、

 

野菜作りの相談をした時のことである。一人の子どもが、「スイカがいいな。みんなでスイカ割りをして食べようよ。」と言ったのがきっかけで、スイカを作ることになった。でも、畑は僅か一坪程の狭い土地しかなく、私は、

「ううん、困ったなあ。」を連発してみせた。すると、

「畑を作ればいいじゃないの。」と誰かが言い出し、子どもたちの頭はスイカ作りでいっぱいになった。

いよいよ活動開始である。プールの側に草ぼうぼうの荒地を見つけた。ここなら陽当たりも良く、開墾すれば作れそうである。子どもたちは、夢中になって畑作りに取り組んだ。草をむしり、鍬で耕し、汗びっしょりになりながら真黒になって働いた。

畑ができると、次は苗の心配である。近所のお店へ意気揚々と出掛けたが、売り切れていた。しかし、子どもたちもやるものである。苗の注文をしてきたのである。苗が届くと、今度は用務員さんに頼んで植え方を教えてもらった。

しばらくすると、つるが伸びて道路にまで這い出した。一難去ってまた一難。せっかくのスイカが踏まれては大変と、気掛かりでしかたがない。とうとう自分たちで看板を作って立てることにした。苦労の甲斐あって、夏休み前には、たくさんのスイカが実をつけたのである。

ところが、最後に大失敗。夏休みに烏よけをするのを忘れてしまったのである。子どもたちと恐る恐る畑へ行ってみると、辺り一面草だらけで、スイカなどどこにも見当たらない。もうだめかと諦めかけたが、そうっと草をかき分けて見ると、みごとなスイカがにっこり顔を出したのである。草が守ってくれたのだ。

こうして念願のスイカ割りができたのである。あの時の、甘くておいしいスイカの味は、今でも忘れられない思い出となった。

もし、転ばぬ先の杖で口をはさんでいたら、この様な感動はなかった

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。