教育福島0181号(1994年(H06)09月)-026page

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幼なじみのたくさんいる生まれ故郷で、二人で穏やかに暮らしている。

母の作ってくれた昼食は、焼き魚と焼きナス、サラダ、そして、家庭菜園でとれたトマトにキュウリ。特別な献立でもないのに、普段の食事より、おいしく感じるのは、お米の良さばかりではないように思う。

この四月、娘は大学生となり、東京で一人暮らしを始めた。入試から上京の準備まで、心配と慌ただしさで寂しさなど感じる暇は全くなかったが、娘の部屋の片付けを終えて、一人で帰ってくるときの私は、涙をこらえるのが精一杯であった。頭の中の一部にポカッと穴があいたような状態のとき、なぜか自分が家を離れたときのことを思い出した。

私が家を離れたのは、大学を卒業し、初任者として白河へ赴任したときである。福島駅で母と別れ、一人で電車に乗り込んだ私を、母はどんな思いで見送っていたのだろうか。きっと、今の自分と同じ思いだったのではないだろうかと、今になって初めて分かったような気がする。あのとき、自分が母の気持ちなど全く考えることもなかったように、娘もまた、私の気持ちが分からないだろうと思う。これもまた、仕方のないことなのかもしれない。

実家では一父母と三人でテレビの高校野球を見ながら雑談し、母の作ったナスなどをもらって、夕方実家を後にする。

父母は、私の車が見えなくなるまで、庭先で見送ってくれている。その姿に、父母の優しい思いを感じながら、私も、父母と同じ様に、優しく温かく子どもたちを育てていきたいと思った。たとえ、その思いがすぐには伝わらなくとも、私がこの年齢になって初めて分かったこともあるように、ゆっくりと伝わっていくこともあるように思う。

教師としても、実効ばかりを求めないで、その子らしさ、その子の良さを父母の心で、優しく育てていくことも大切だと思った。

こんなことを改めて考えさせられた里帰りだった。

(中島村立吉子川小学校教諭)

 

原因の原因の

原因を求める

本田樹

 

形を問わず、形としてあるいは心として大切に継承されていることに違いない。

 

各学校には一それぞれ先人から引き継いできた宝がある。それは、有形・無形を問わず、形としてあるいは心として大切に継承されていることに違いない。

本校にも大切にしているものがたくさんあるが、その中に会津若松市東山出身の有名な画家、春日部たすく先生の作品も含まれている。ここで、作品について云々するつもりはない。

春日部先生のこんな言葉を思い出したのである。

「準備をする人よりも、事が終わってから後始末を進んでする人になりたい。」

いろいろな準備は始まる前なのでたいていの人は進んで行う。しかし、事が終わってからの後始末は気乗りしないものである。それを進んでできる人は、心が美しい人だとおっしゃっているのである。そんな先生の美しい心が人々を感動させる美しい画になっているのだろう。

そこで、日常生活に目を向けてみたい。

子どもたちの多くも、後始末やまとめを進んできちんとできる子はない。『先生に言われないでもできる心の美しい子どもになろうね。』と話をするがなかなかうまくいかないものである。

そこで、どうしても、今の子どもたちは根気がないとか、やりっぱなしであるとか、ついには家庭では何を教えているのかといった談議までとび出す始末である。

でも、もう少し考えてみると、土光敏夫氏の言葉を借りるなら、『原因の原因を探り、原因の原因の原因を求める』とすると、どうも子どもたちばかりが悪いのではなく、私たち大人にも原因があることに気がつく。子どもたちが後始末やまとめがきちんとできないのではなく、それを教えられない大人、つまり、後始末やまとめのできない大人の姿が浮かびあがってくるのである。

このことは、ほんの一例にすぎない。原因の原因の原因を求めると、そこに見えてくるものは自分自身の姿に他ならない。

 

 

 


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