教育福島0181号(1994年(H06)09月)-029page

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たちまちだめにしてしまう。手入れをし、肥料を施して、順調に成長していたはずの野菜が、収穫の時期を迎えて大きく期待をはずれる時がある。なぜなのか、しばし畑の中にたたずむことになる。肥料の施し過ぎはひ弱な野菜を作る。手入れのし過ぎも野菜にとっては迷惑になるときがあるらしい。いずれにしても収穫の時期にははっきりと「育ての心」の答えをだしてくれる。

本気で営めば営むほど、拘わる時間が長くなれば長くなるほど、知識と実践のずれが大きくなる。そして、野菜作りの真髄をつかむことはできず、疑問や悩みをもつ。野菜たちに「真髄を聞いてみたい。」そんな思いで野菜作りを楽しんでいる日曜農業の一入門生である。

子育ても同じようになることが言える。二人の子どもを育てた今、省みればものの与え方ひとつを考えても、どこか野菜の手入れの仕方や肥料の施し方に似ているような気がする。野菜は失敗しても毎年その時期が来たら種をまいて育て直すことができる。やり直しがきくのだ。しかし、教育はそうはいかない。今日のこの授業でこの学校行事で、何を、どんなふうに育てていくのか。芽を出したばかりの作物の中の雑草を抜きながら「育てる心」の実践の難しさを考える今日このごろである。

(梁川町立梁川中学校教諭)

 

ゆかしき花は

渡部佐吉

 

、その長い距離が、また楽しみを与えてくれるのだから、捨てたものではない。

 

片道五十キロメートル余りを通っていると、よく「大変でしょうね。」と言われる。正直疲れるし、冬の凍結した日などは、運転するのも恐い。だが、その長い距離が、また楽しみを与えてくれるのだから、捨てたものではない。

会津の豊かで美しい自然を、私はひそかに自負している。一市五町村にまたがる私の毎日の通勤は、この様々な顔を持つ自然と触れ合う、心弾む小旅行でもある。何よりも、桜・紅葉、そして私の好むけぶるような若葉の季節を、日を変え場所を変えながら、何度も楽しむことのできるのがうれしい。

通勤の途上ばかりではない。私の通う学校も、広々として自然に満ち溢れている。そんな学校の、私の一番お気に入りの場所が中庭だ。ここには「ねぢばな」(表記は誤りでもあえてこう書きたい)が咲いている。普段どこかで咲いていても、小さくてつい見逃してしまいそうな花だが、これだけ群れているとなかなかの壮観だ。生来無趣味で、花などにはとんと関心のない私だが、この花には妙に愛着を感じる。天に向かって必死に細い身を捩って咲くその姿に、けなげさのようなものを感じるのかもしれない。

六月の初め、不精な私が珍しく外に出て、いくつか掘り探って家の庭に植えた。梅雨も明けようとする今、それが無事根付いて花を開き始めた。こころなしか田島の「ねぢばな」は、前から家にあるものに比べて色白のようである。今年は中庭の雪も遅くまで消え残っていたが、ほころび初めた小さな花弁に宿る白さは、そのせいであろうか。

このいじらしく可憐な植物は、別名「もじずり」とも言うが、それもロマンを感じさせる響きだ。

みちのくの……

ここは信夫の里でもなく、草も異なるものであろうが、花を賞でるに障りはあるまい。どこにでもある花だが、田島の花には田島の人間の想いがこもっていて美しい。この中庭の花を見て、かつてここにいた人たちは何を夢み何を想ったのであろうか。

まだ中庭の「ねぢばな」は咲かない。芝生の上にはひょろひょろとした茎が伸び、風に揺らいでいる。風と一緒に生徒たちのさざめきもわたる。くったくなげに語る顔が、夏の光の中に輝く。夕方、ひとしきりのにぎわいの後、中庭に静けさが戻る。ヴェランダで、教室の中で、ふと一人に返る時、まだ若い胸の奥で、かれらは何を念じているのだろうか。未だ行き場を知らぬ、言葉にならぬ想いが中庭に舞い降り、やがて咲いて散る小さな花弁と一緒にひっそりと土に身を潜める。「ねぢばな」の根元には、私の知らないいろいろの想いが埋もれている。いっか芝生に腹這い、小さな野の花にそれを訊ねたいと思う。

(県立田島高等学校教諭)

 

 

 


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