教育福島0182号(1994年(H06)10月)-024page

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をかけず、集中力もつくのではないか」と考えたのか、武道の心得を説明し、熱心に入部を勧めてくれました。このことが私自身を大きく変えた剣道との出会いです。

当時は体も小さい方だったので、「まるで防具が歩いているようだ」とよく言われましたが、約十キログラムの防具の重さに耐えながら練習に励みました。夏の練習では、面の中を汗が滝のように流れ、意識が薄れることもありました。冬の早朝練習は、寒さとの戦いでありましたが、一番辛かったのは、足がしもやけとひびぎれになり、歩くたびに出血し、言いようのない痛みに悩まされたことでした。

思えば苦しいことばかりの剣道でしたが、それに耐えて十六年以上も続けてこれたのは、三尺七寸の竹刀を中段に構え、相手を正対し、決して逃げることや惑うことのできない空間で、まばたきや呼吸すら許されない一瞬の攻防という剣道の魅力にあったと思います。相手の存在を無条件に受け入れ、動作や竹刀の動きから心を読み取って判断、決断し、竹刀が自分の腕の延長として自由に動いた時のそう快感はたとえようがありません。

もう一つは、剣道については全く無知であった私に、分かり易く一緒になって汗を流して指導してくれた先生や、欠点には目をつぶり長所を伸ばしてくれた先生など、くじけそうになる私を一生懸命に支えてくれた人々との出会いにあったと思います。

剣道を始めた動機は、決して胸の張れることではありませんでしたが、自分自身を冷静に見つめることができるようになり、人間の幅を広げてくれたのは剣道であると言っても過言ではありません。「剣は心なり」ということばがありますが、このことばに一歩でも近づけるよう鍛練を続けたいと考えています。

四月から、三十九名の元気あふれる子供たちの担任になり、指導のむずかしさを痛感しているところですが、剣道で学んだ心を生かし、一人一人のよさや可能性を一層伸ばすことができる教師になりたいと思っています。

(富岡町立富岡第一小学校教諭)

 

再読、或いは差異読

星隆雄

 

というアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を暑い夏の日に再読した。

 

「シーシュポスは重い巨大な岩石を、全存在をかけて山頂まで押し上げる。だが岩は頂上につくやいなや麓へ転げ落ちる。だからシーシュポスは、またその岩を麓から押し上げなければならない。それは神に逆らって、人間としての自由を要求したシーシュポスに科せられた永遠の苦役である」というアルベール・カミュの『シーシュポスの神話』を暑い夏の日に再読した。

十数年前、まだ学生だったころ、教育心理学の講義で、担当の教授がこの物語を弓用して「何度も裏切られ、失敗を重ね、試行錯誤を繰り返し続ける行為と意志の中にしか、諸君等の可能性も尊厳性もない」と語っていたのを思い出した。当時は「ひどく重い話だ」という感想を持って聴いていた。

ところで、知り得る物語のすべては、それぞれの物語の一部に過ぎないのかもしれない。始まりの前にも、終わりの後にも物語は続いているのであり、わたしたちは終わりなき物語の一端を垣間見るだけなのだとも考えられる。そうだとすれば、わたしたちが読み得るシーシュポスの物語を越えて続くシーシュポスの物語の中で、シーシュポスは今も彼の努めを遂行シているのだという想像も成り立つ。だが、それゆえ「無限に繰り返される過程のうちに、岩は次第に割れ砕け、失われてしまうことはないのだろうか。或いは地形の変化により山は消滅しないのか。いや、岩も山もシンボリックな表象であるからそれらは無意味な空想である」などと考えているうちに、次第に「この物語には、ある反転した構図が内在しているのではないか」という思いにとらわれてきた。つまり「シーシュポスに科せられているのは、実は彼自身の運動であって、岩の移動ではない。岩は彼の負担ではなく、シーシュポスに自らの為すべき行為を開示してくれるものなのではないか。だからシーシュポスが岩を運ん

 

 

 


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