教育福島0184号(1995年(H07)01月)-025page

[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

ーチがあった。限られた時間のなかで、授業者の指導観を含む思いが十分に伝わる、創意に満ちた知的な授業でもあり、大いなる共感を覚えた。

 

このような児童・生徒の生き生きした場面に立ち合うと、あらためて強く思うことがある。

それは、児童・生徒をとりまく環境や価値観の多様な現代、彼らの鮮やかなまでの知的欲求や感覚的充足をはじめとする健やかな心身の育みを支援してあげるために、先生どうしのお互い気楽で構えない「授業舞台への粋な招待状」のお勧めを提案したい。

未来に活躍する大切な児童・生徒たちに対する、教師仲間の一つの熱い意気込みとして、「児童観・生徒観・教材観・指導観」へ向けた、職場の仲間が気楽に学年や科を越えて、授業を見せあう雰囲気(人の和・輪)、そして教科に対する豊かな見識と生徒を生かしきる人柄があいまって、そのひとらしさがにじみでる“単元別得意分野のオープン授業”などを試みてはいかがでしょうか。(思えば、外での体育の授業や廊下を伝わる音楽の授業は毎日公開授業かな!?)

 

児童・生徒とともに“学び・感じ・鍛えあう”望ましい授業工夫の推進が少しずつ、しかし着実に出来ればすばらしいことである。

先に紹介した小学校の授業や、教員一年めの斬新でダイレクトな初任者研修公開授業の数々を思えばなおさら…♪。

(高等学校教育課指導主事)

 

「ハエたたき」雑感

鈴木且雪

 

奪っていることを後ろめたく思う気持ちなど、すっかりなくしてしまっている。

 

夏から秋にかけての我が校に、なくてはならない物がある。それは、ハエたたきである。どういう訳かハエが多く、飲みかけのお茶の中でハエが泳いでいて、うっかり飲むこともできない。朝の巡視を終えて、さっそくハエたたきを手にすると、すぐに十匹ぐらいは仕留めてしまう。おかげでハエたたきの腕まえは上がったが、ハエの命を奪っていることを後ろめたく思う気持ちなど、すっかりなくしてしまっている。

この場合、相手はハエだが、近ごろ、どうも人の命を奪っても何とも感じなくなってしまったのかと思うような事件が多く起きている。また、子供たちの会話の中に、「殺す。」とか「死ね。」とかいう言葉が平気で使われていて、ドキッとさせられることも多い。子供たちの世界は、大人の社会を敏感に反映する。そこには、死の意味を考えないために、生きることの重さをも見つめていない、今の日本人の姿が浮び上がってくる。

ある電話相談に、「どうせ死ぬのに何故生きていくのか。」という、小学生からの質問があったそうだ。どうせいつかは死んでしまうのに、何故生きていかなければならないのか、何とも素直で難しいこの疑問に対して、相談を受けた先生は、どのように説明したら理解してもらえるだろうかと大いに悩んだそうである。私は、この話を聞いたときに、「浜までは 海女も蓑着る 時雨かな」という句をふと思い出した。やがては海に入ってぬれてしまう海女でも、浜に着くまでは身体をいたわり、折りからの時雨に蓑を着るのである。どうせいつかは死ななくてはならない身だからこそ、今をどう生きるかが問われるのだ。

生を問うなら、まず死を学ぶべし。日常の生活の中で忘れかけているがいつか確実にやって来る「死」について真剣に向き合ったとき、ただ生きていくのではなく、よりよく生またいという気持ちが起きてくるのではないだろうか。臨死体験をした人の多くが、その後、人のためにできることを一つでも多くしていかなければと思うようになったという話を聞いたことがあるが、何か納得ができるような気がする。

今、子供たちに、自ら学ぼうとする意欲が求められている。その基となるのは、よりよく自分を高めていきたいという気持ちであり、向上心であると思う。そのためにも確かな生死観を持つことが大切なのではないかと一人考えるこのごろである。

(大信村立信夫第一小学校教頭)

 

 

 

 

 


[検索] [目次] [PDF] [前] [次]

掲載情報の著作権は情報提供者及び福島県教育委員会に帰属します。