教育福島0185号(1995年(H07)02月)-019page
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運転に必要なもののみを視野に入れるのに精一杯で、野辺に咲く花などを愛でる余裕を持てずにひた走る姿に似ている。そして、私もその一人であることを否定できない。それゆえ、努めて自らの視野を広く持たねばならないと思う。眼前の教え子の思いのみならず、せめてその保護者の思いくらいまではなんとか視野に入れ、日々の教育活動を照らす鑑にしていかなければと思う。そしてへやがて保護者となった教え子たちが私の教育活動を思い出し、「あいつも、まあまあがんばってたかな。」とでもつぶやいてくれたらと思う。・
(塩川町立塩川中学校教諭)
学校栄養士として…
松本眞砂子
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学校栄養士として本校に勤務し、二十五年の歳月が流れた。勤務して間もない頃の施設は、暗い調理室に大きな据え付け釜が二基、木製の調理台が一台あるだけだった。「一体これで何ができるのだろうか。」と理想と現実の狭間に悩み苦しみ、悔し涙の日々が続いた。
しかし、職に対して最善を尽くしたいという気持ちから、微力ながら最大の努力を注いできた。
当時は、昼働きながら夜学ぶ三百有余名の勤労青少年の健康を預かる責任ある仕事であった。一ヶ月の給食費がわずか六百円で、週一回の果物が楽しみという質素な給食だった。生徒にとって給食の時間は、栄養を補給しながら身も心もリラックスできる時間帯であった。また、遠足や演劇発表会などもあり、野球部の練習は、夜間照明の下で毎晩遅くまで続けられた。生徒の中には、妻帯者も多く年齢も様々で、私より年上の生徒が在籍し、生徒から学ぶ事も多かったように思う。球技大会では、私自身も生徒のように競ったあの遠い日が懐かしく感じられる。働きながら学ぶ道を選んだ彼らは実に生き生きとしていた。そんな彼らに栄養たっぷりの安くて美味しい夕食を提供したくて、毎日頭を痛めていたものだ。
それから,十年経ち豊かな時代を迎え、念願であった食堂が新設され厨房も新しく生まれ変わった。このことは、それまで抱えていた問題や苦労をほぼ解決し、私に仕事への新たな希望を与えてくれた。
しかし、その頃から生徒たちの様子に変化が見られた。生徒数が減少し、全日制からの転編入者が増え、不登校など心に病を持つ生徒も増えはじめてきた。定職者が減少し、無職の者が多くなり、。ハートやアルバイトが増えていった。また、生徒たちをとりまく社会環境の変化から、不規則な食事や偏食など好ましくない食生活が進み、生徒の健康も心配される状況から、学校給食の重要性は更に高まり責任の重さを痛感した。現在、明るい食堂での先生や生徒同志のふれあいながらの食事は、彼らの心を開かせ、悩みを和らげ、そして解決の糸口さえ見い出しているようである。愛情を込めた一食の料理は、私の栄養指導の大切な媒体となっている。「グラタン熱いから気をつけてね。」など、なにげない言葉であるが、生きた言葉と表情は生徒の心に響き指導効果も大きい。生徒の話に耳を傾けると、真剣に目標に向かって努力している生徒も多い。今後も将来ある生徒のために、心を込めた食事と健全な食生活を与えてやりたいと思う。
定時制高校に勤務しての星霜は、短いようであるが、振り返れば長い道程であった。
(県立白河第二高等学校主任栄養技師)
導き星
慶徳一彦
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今年は、昨年の冷夏と異なり熱帯夜の続く、記録的な猛暑であった。だが、この様な天候のせいもあって大豊作とのこと大変喜ばしいことである。
ここで考えてみると、実りの秋を
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