教育福島0185号(1995年(H07)02月)-021page

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ければならないことを肝に銘じ、自分自身をさらに磨き、また新しいことに挑戦していく勇気も持ち続けたいと考えています。

  

これからも初心を忘れることなく無限に広がる子供たちの夢をかなえてやるための努力を惜しまない保育者でありたいと思っています。

  

(磐梯町立磐梯幼稚園教諭)

  

 

  

寄せ書き

  

大竹良幸

  

 

、卒業アルバムの寄せ書きを見ながら、つい失礼なことを言ってしまった。   

 

  

教師になって間もない頃、小学校時代の恩師を訪ねた。昔の話に花が咲き、卒業アルバムの寄せ書きを見ながら、つい失礼なことを言ってしまった。

  

「先生、僕らのクラスの…何かパラパラに見えますね…。」

  

「そうか…?でも一組らしくていいんじゃないか?みんなのびのび書いてるぞ。」

  

我がクラスの寄せ書きは、実に見事(?)なものであった。大きな文字、小さな文字、太い文字、細い文字が、縦、横、斜めに自由に飛び交い、画面いっぱいに一人一人の性格があふれているではないか!申し訳ないことに、中央に書いたはずの先生の言葉は、四十三人の子供の文字に埋まってしまい、全然目立たない。普通、寄せ書きといえば、先生を中心に、ひまわりの花のようにきれいにまとまっているはずなのだ。

  

教師一年目。当時私は、ひまわりのようにきれいに整然と見えるクラスをつくりたいと思っていた。だから、恩師の「みんなのびのび」の意味を、よく飲み込めなかった。

  

あれから十年…ようやくあの言葉の真意を考えられるようになったような気がする。小学校時代のクラス…わんぱく大将も多かったし、泣き虫や寡黙の子もいた。一見バラバラに見えるが、先生はそれに枠をはめようとはしなかった。それでいて仲の良いまとまったクラスだった。もちろん、勉強もやった。

  

今考えると、僕らは個性を摘み取られなかったのだ。一人一人が大切にされ、持ち味を発揮できるようにしてもらっていた。それが、あの卒業の寄せ書きに表れていたのだと思う。

  

〜現在の私に同じようなことができるだろうか〜

  

私は、クラスや学年、部活動の生徒の顔を見ながら、ふと考える。形式や成績、結果に気をとられるあまり、生徒たちを枠にはめ、彼ら一人一人の伸びる芽を摘んでしまっているのではないか、と。また、生徒の持ち味を考えるあまり、全体がまとまらなくなってしまうのでは、という危倶も一方にはある。本来なら、それぞれの持ち味が十分出ていれば、全体もユニークで素晴らしいものになるはずなのだが…バランスを取るのは難しい…。

  

今の生徒たちが卒業するまであと一年。彼らがすくすくと伸びていけるような人的環境に、私自身なっていきたい。

  

彼らの卒業の寄せ書きは、どんな作品になるのだろう。それぞれの生徒が、どのように自分らしさを表現するだろうか。楽しみである。

  

(三春町立三春中学校教諭)

  

 

  

母の筥迫

  

遠藤真理子

  

 

るといきなり空は広くなり、美しく雄大な安達太良山が姿を現してきます。   

 

  

私は、時々、安達太良山の見える実家に帰ります。二本松を過ぎるといきなり空は広くなり、美しく雄大な安達太良山が姿を現してきます。

  

私は、その時、えも言われぬ心の解放感を感じます。

  

人には誰にもノスタルジアがあります。そしてこのノスタルジアは、今ある自分の原点でもあるようです。

  

私の幼い頃は、テレビがあまり普及していなかったので、眠る時に祖母の懐で聞く昔話やラジオ放送などが楽しみでした。また、私は母の留守の時に、母の箪笥にしまってある桐の箱を開けるのも楽しみの一つでした。この箱の中には、婚礼の時に

 

 

 


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