教育福島0186号(1995年(H07)04月)-028page
って読むことはまれです。目に入っても、風景の上部として流してしまうのが常です。
また、石に刻まれた文字も何か威圧感があり、「さあ、見なさい私の偉業を。拘石にして後世に残したぞ。」の声も聞こえてきそうです。
しかし、このような見方は狭く、一方的であったことに気づかされました。それは、私たちと同じような感覚、心情を持ちながら暮らしていた人々の、言ってみれば「庶民の碑」といったものがあると分かったからです。
ここで、二つの碑を紹介します。
『俺は結局凡々と生き
凡々と死ぬことだろう。
だが、たった一つ出来る。
涙を流して祈ることだ。
それが國泰かれか
親安かれかは知らないが
祈ることなのだ。
昭和二十年四月十二日 二十二才
会津若松市に生まれ
沖縄南方上空に散る』
この碑は、猪苗代湖畔の田んぼ道に、野の花に囲まれてひっそりと立つ、とても小さな碑でした。
思うに、遺族の方が、形見の手帳などに書き留められた一文を、彼が帰りたかったであろう、この豊かな故郷の自然の中に残したのでしょうか。
『−−灯火記念碑−−
…先祖代々ここに電気を引くことを念願し、相談を重ねてきたが困難を極めた。しかし、努力の末昭和三十七年十月二十四日初めて電灯の光を見ることができた。その喜びを記念しここに碑を立てる…』
この碑は、会津若松市内から奥に二十キロ程山道を入った、澄んだ渓流の廃屋の脇にありました。
この二幣地(にへいぢ)地区は、その後十五年を経ずして挙家離村し、現在は廃墟となっているのです。
清流のせせらぎと、山鳥の鳴く声を聞きながら、緑の苔をかぶった石碑は一体、人間達の営みをどのようにながめてきたのでしょうか。
ところで、私は教室で子どもと接している時、一人一人の心を本当に見ているか、そのメッセージを本当に受けとめているかと思う時があります。
そんな時、今を一番大切な時としていつでも心を開いていたいものだと思います。
今を生きる人は皆、今後完成をみる「生きた碑」に違いありません。
皆さん、私たちは自分の人生をどんな言葉で書き記せるでしょうか。
(磐梯町立磐梯第一小学校教諭)
パソコン
沼田賢二
現在、学校ではパソコンはなくてはならない存在になってきている。本校においてパソコンは、成績処理・統計・進路指導資料作成などに活用され、ワープロは考査問題・各種配布するプリントなどの作成に利用されている。学校の活性化を考えるうえでパソコンの存在は大きい。
パソコン導入当初、パソコンに対して消極的でただ眺めるだけであった同僚も、今ではわからない人たちを相手にいろいろと説明し、操作方法の手ほどきをするまでになってきている。このように教師のパソコンの対応も変化してきている。
私自身の場合を考えてみても、当初はコンピュータ機器に対して一歩も二歩も躊躇していたように思う。プログラムを完成する中でエラーがあり、前に進まないで止まってしまい時間ばかりかかっていた。その原因を調べてみると、入力ミスでピリオドが打たれてなかった。コンピュータは少しのミスも絶対は認めてくれない。
このような失敗を繰り返しながら私自身が同僚の手助けを受け、一本のプログラムができた時、この満足感、充実感からパソコンに対する考え方が変わり、興味と関心をもつようになった。
本校には、現在、汎用コンピュータ、パソコン、ワープロ等の機器がある。毎日の授業はもちろんではあるが、朝早くから放課後まで休みなくコンピュータ教室で生徒たちが画面に向かってキーボードをたたいている。「先生、今日は実習できますかと「どうしてもエラーがわかりません」と、生徒たちの熱い声が聞こえてくる。入学当時、「これをさわったら壊れないですか」「このキーボードを間違って押してしまいましたが大丈夫ですか」と、何もわからないで不安げだった生徒が、短期間にコンピュータの知識を自分のものとして理解し、早く正確に打てるようになってきている。生徒たちの覚えの速さに、驚いてしまうばかりである。
今後、時代の進展にともない情報