教育福島0187号(1995年(H07)06月)-027page
すますこの勉強に力を入れなければと決意を新たにしている昨今です。
(会津本郷町立本郷中学校教諭)
初めての同級会
遠藤愛子
昨年六月、教え子から同級会の知らせのはがきが届いた。それは、私が教職について初めて出席する同級会なのである。そして、その教え子たちは、私が、教師になって、初めて受け持った子どもたちである。つまり、私にとっては、記念すべき出来事と言っても過言ではない。
私が受け持った当時、彼らは、小学校三年生。純農村地帯で周りは田んぼに囲まれ、自然環境に恵まれたすばらしい学校であった。素直、純朴を絵にかいたような子どもたち。それが、私の赴任の第一印象であった。そして、今、その彼らは二十二歳。青春、真っただ中。思えば、私が、赴任したのも二十二歳だった。
同級会は、お盆の十三日。きっと郷里を遠く離れ、仕事に出ている者が、里帰りをするころにと期日を決めたのであろう。私も、お盆には毎年郷里三春に帰るのが恒例になっていたが、その日ばかりは、特別。八月に入ってからは、その日が来るのを子どもたちが遠足を待つかのように指折り数えて待った。
そして、同級会当日。何を着ていこうか、ヘアースタイルは、恩師らしい姿とはと考えながらも、いつもと相変わらぬ格好で出かけた。出がけに、姑に「同級会に行って来ます。」と言うと、「小学校か、中学校か。」と聞き返され、「いや、今日は、恩師として出席するんです。」と言うと、「いや、お母さんも偉くなったね。」と激励の言葉をもらって家を出た。
店の前に車を止め、少々緊張しながら、店の中に入った。あっ、いたいた。ひと目でわかる。あの顔、あの声。十四年前が一気に甦ってきた。「Y男君、M子さん、お久しぶり。」すぐに、話は盛り上がった。「遠藤先生、ぜんぜん変わんないね。」そんなことを言われ、うれしいやら照れくさいやら。
二十一名中、十一名が出席。母親になっている人。店長になった人、実に様々である。一人一人の十四年間を語り合うには、ほんの数時間で足りるものではない。しかし、立派に成長した彼らと語り合う中で、自分の人生を精一杯生き、前向きに歩んでいる彼らを見て、大変頼もしく、その若さがうらやましくも思えた。
今、彼らと過ごした校舎は、鉄筋三階建ての立派な校舎に変わり、跡形もない。校歌の中にある学校山も半分ほど削られ、彼らとかけ回ったアスレチックもない。だが、十四年たった今、彼らと再会することで、あの日彼らと過ごした学校での情景が、はっきり甦ってきた。数時間のタイムスリップの後、「また会いましょう。」の言葉を最後に皆と別れた。
(東村立釜子小学校教諭)
ゆっくり急げ
熊坂洋
大学四年の時、史学科のゼミで池袋の近くに現存する「長崎アトリエ村」の実地踏査活動を行った。
「長崎アトリエ村」とは、昭和初期、ある富豪が世のためになることはと考え、芸術家の卵たちにアトリエ兼住居を与え、それが小さな村を形成したものである。芸術家の卵たちは、そこで創作活動に熱中し、青春を謳歌していったわけである。この村は、現在日本の芸術界で活躍している一流の人々を輩出してきた。ちなみに「原爆の図」で有名な丸木位里・俊夫妻も、この村の出身である。
大都会の中に、今でも当時そのままの姿で、アトリエ兼住居が数軒残っていた。しかも、そこで創作活動を続けている人々に接することもできた。
その中に六十歳代のある彫刻家がいた。彼は快く我々の取材に応じてくれ、家の中へ入れてくれた。八畳程の板張りのアトリエ。天窓から降り注ぐ柔らかな陽光が、何体かの彫像を照らしていた。そして、四畳半の部屋が、アトリエに続いていた。そこで彼が言ったこの言葉が今でも忘れられない。
「Festina lente(フェスティナ・レンテ)」
この言葉は、「ゆっくり急げ」という意味で、古代ギリシャの時代からあったものらしい。それもそのはず「急がばまわれ」という万国共通の諺のもとになった言葉である。彼はこの言葉を座右の銘としていると言