教育福島0188号(1995年(H07)07月)-027page
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思うのである。
教師として仕事を始めたのは、もう十年以上前になる。自宅から自転車で平工業高校に通勤していた。非常勤講師の身である私は、その身分の不安定さに教師なのかそうでないのか心定まらぬ日であった。授業や部活動での生徒との関わりでは充実を覚えたのだが、社会の中での評価や、その収入に対して忸怩たる思いがあった。
もう一度、試験に落ちたら、都へ戻り、ふるさとは遠きにありて思うものとするのだという、故郷との訣別の意志に囚われていたようだった。
学校の生徒相談室に私の机があった。谷平泰男先生と、野口雨情の娘婿であるS先生が同室であった。日がな一日、その二人の先生のいろいろな話の聞き役となった。なにげない言葉の端々に、思いが伝わった。
印象的な場面がある。
私が二人にお茶を入れようとする。谷平先生がおもむろに近づき、自分の茶腕を手にする。
「お茶は自分でいれますから。」
「そのような気遣いをしないで。同じ教員なのですから。」
S先生が言う。
「そうですよ。気を遣わないで。」
ともすれば、卑屈になっていた大学出たての一人の男には、心の底から救われたという感覚が生まれる。肩ひじ張ろうとする力が消え、「教員にならなければいけない」、「先生の言う同じ教員にならなければいけない」と強く感じていた。
私が新採用として白河の定時制高校に赴任していく時、谷平先生は退職された。夏休みのある一日、わざわざ私の自宅まで迎えに来て下さり、ひげの顔で言った。
「さて、今日は飲みますか。」
飲みすぎて奥様に止められている姿が心に残っている。
その一年後、夜の運動会の最中、先生の訃報と出合う。
送っていただいた遺稿集に、先生が海を見ている写真がある。今も時折、その姿に出合う。この稿のために、再びその眼差しに出会うことができた。先生は何を見つめていたのか、何を見つめようとしていたのか。象の眼のような眼差しの行方、その思いを、教員の生活の中で、いつのまにか追い求めているようだ。
(県立田村高等学校教諭)
ベートーベンと「もっこす」
須藤智子
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私は、ベートーベンの音楽が大好きである。低音部の荒々しい音の響きと何かを訴えるような高音部の旋律とがうまく調和している。大きな灰色の雲のような重苦しい旋律は、必ずと言ってよいほど、どの曲の中にも出てくるが、その灰色の雲がやがては流れ去り、日の光のような明るくて晴ればれした音楽になるとき身体の奥から、ググッと何とも言えない幸せが込み上げてくる。宇宙のような確かな存在でありながら、つかみどころのない大きな何かを感じるのである。そこがよいのだ。言葉をいくら並べても、今の私にはうまく説明ができない。重々しく雄々しい中に優しく切ない旋律を感じるが由に、ベートーベンの音楽に魅かれるのだろう。
どこの学校の音楽室でも、もじゃもじゃ髪で険しい顔つきをしたベートーベンに出会う。苦渋に満ちている。しかし、その表情からは、人生を力強く歩んだ様子がうかがえる。自分の思想や主義を押し通して生きた。そこがまたよい。私の故郷の熊本の方言に「もっこす」という言葉がある。「あん人(ひた)ぁ、もっこすやっで。」という具合に使う。意地っ張りでがんこという意味である。一番身近にいるもっこすは父である。しかし、そんな父が私は好きだ。この白河の地では、もっこす的な人にはまだ、お目にかかっていない。「もっこす」という言葉は、どちらかというと男性に使われる。白河の男性は、優しくて穏やかな人が多いようだ。私がベートーベンを見る時、この「もっこす」のイメージを受けるのだ。平和で温和に生きるのが難しかった時代に、自分に素直だった偉大な作曲家の勇気が好きである。いつの頃からか、ベートーベンが歩いたハイリゲンシュタットの道を私も歩いてみたいと秘かに思うようになった。
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キューちゃん
そんな夢と希望を抱きながら、最近、生徒たちに、もっともっと音楽と身近に接してほしいと考えるようになった。運動部が三つしかない小規模校の我が校で、何ができるかと思案した結果、今春より、月に一度、
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