教育福島0189号(1995年(H07)09月)-024page

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せられる。

私が教師になったばかりの頃先輩の先生に「教師と子どもは凧と糸の関係だよ。」といわれたことを覚えている。はじめは頭では分かっていたつもりだが実際とても難しく、ほどよい関係を保ち気持ちよく凧を揚げることはできなかったように思う。時には引く力が弱くて糸を絡ませ、時には凧の引く方向とは別の方向に揚げたくて無理に引っ張ったために糸を切ってしまったり。そんな失敗を繰り返してきたように思う。

最近、私が凝っているものに水草がある。

輝く水にきれいな緑色、そんな水草に魅せられてとびついてみたが、こうしたらこうなるはずと、それぞれ水草の持っている性質や特徴を理解せず、こちらの思いや好みで強引にレイアウトしてしまう。結局失敗である。とろけるように枯れてしまったり藻が大発生したりと。もともとそれらが持っている性質の理解も必要であるが、それぞれが生きるのに適した環境、水温、PH濃度、酸素と二酸化炭素のバランス、ろ過バクテリアの状態、水の硬度など目に見えない部分で起こっている変化の把握も必要である。

それぞれが本来生き生きと生き続ける条件をよく理解し、それに適した手だてをしなければならないことを考えると、小さな一つの水槽を育て維持していくということを通じて、学級経営の難しさや楽しさと重なる部分が感じられるのである。

私は、失敗することによって教師として学び得るものが多かったように思う。おそらくこれからもそれは続くと思うが、そんな私を正直に子どもたちの前に出し、子どもとふれあい子どもに触発されながら、「同級生」として共に育っていく関係を続けていきたい。

(いわき市立藤原小学校教諭)

 

「話し合う」ということ

目黒寅夫

 

、日本とアメリカの大学生を比較しているくだりがあり、とても興味深かった。

 

小説家・新田次郎の息子に藤原正彦という人がある。今はたしか御茶ノ水女子大の数学の教授をしているはずだが、父親譲りで文才もあり、エッセイを何冊か出版している。これがなかなかおもしろいので、私は本が出るたび読んでいるが、その中に、日本とアメリカの大学生を比較しているくだりがあり、とても興味深かった。

藤原さんがアメリカで教えていたときの経験によると、アメリカの大学生の知識は驚くほど少ないという。なにしろマイナスの数×マイナスの数の計算ができない学生がいたというのだから、日本ではとても考えられない。大学どころか高校にもまず入れないだろう。ところが、驚かされたのは、このマイナスの計算ができない学生と藤原さんが、あることで議論をしたときに、相手の論理の確かさに、数学者である藤原さんがたち打ちできなかったというのである。この学生に限らず、アメリカの学生と議論して相手を言い負かしたことは一度もないという。数学者といえば、論理に関しては専門家である。その専門家が一般の学生と議論して勝てないのはなぜか。

理由ははっきりしている。社会風土の違いと教育の違いである。日本では、「以心伝心」のことばに象徴されるように、日に出して言わなくてもわかってもらえる、というところがある。アメリカでは、話をしない人は考えを持っていない人とみなされる。そのため、小学校の段階から徹底的に、自分の考えを理路整然と述べる訓練がなされている。それが十分身についているからこそ、学生でも大学教授に勝てるのである。

今、「国際化」が叫ばれ、諸外国との交流が深まっている。その中では、日本式の「以心伝心」はもはや通用しない。自分の意見を公的な場でも堂々と話せることが必要となる。私は、アメリカの教育がすべていいとは思わないが、「話し合う」ことを重視する教育の姿勢について見習うべきだと思っている。

私の担当教科は数学である。数学というと、問題解決のテクニックを教えればいいものと思われがちである。しかし、数学で本当にやらなければならないことは、自分の考えを相手に理路整然と説明することができる能力を身につけさせることではないかと思う。現在、その考えのもとに日々の授業に取り組んでいる。

(只見町立明和中学校教諭)

 

 

 


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