教育福島0190号(1995年(H07)10月)-024page

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支えられて何とかやってこれた。教師という仕事は、本当に人と人とのつながりが大切であると感じる日々であった。

一学期の終業式のことである。学級代表として作文を発表する児童が壇上から不安そうな顔で私の方をちらちらと見ている。「大丈夫だよ。」と目で合図をする私。こんなふうに「先生を頼りにしているよ。」と、さりげなく信号を送る子どもたちに励まされながら、頼りにされることに教師としての喜びを感じている。

教職に就いてから、難しいと感じていることの一つが、自分の思っていることを相手に伝えるということである。それは、どんな小さなことでも難しい。

一学期、時々宿題を忘れてくるA君がいた。理由を聞いてみると、テレビを見たりしているうちに時間がなくなってしまうと言うのである。そこで、やる気を出して宿題をやってくるようにさせたいと考え、まず、「どうして宿題をやるのか。」ということを話そうとした。しかし、「どうしたら分かってもらえるのか。」「分かりやすく言うにはどのような言い方をすればよいのか。」と考えてしまい、言葉が出てこなかった。

これが、自分の思ったことを相手に伝える難しさを感じた最初の出来事であった。このことから、伝えたいことをまず自分の頭の中で整理し、それから伝えるということが大切であると実感した。また、それが、子どもたちとの関係においても大切だと思った。

秋には、クラスの子どもたち全員で郡音楽祭に出場する予定である。可能性がある子どもたちと学び合いながら、「メダカの学校」の先生のようにみんなの中に入って一緒に歩んでいきたい。

(舘岩村立上郷小学校教諭)

 

故郷(ふるさと)の夏、そして海…。

伊東智子

 

にとっては、この色こそ生まれ育った故郷、いわき小名浜の海の色だからです。

 

暑かった夏がうそのような秋の夜長、虫の声。今年の夏も猛暑の中多くのドラマが生まれましたが、その中の一つが、夏の風物詩といわれている高校野球でした。甲子園出場をかけて白熱した試合となった県大会での決勝戦。地元の郡山高校を応援しながらも、私の目には、いやおうなしに磐城高校のコバルトブルーの色が入ってきました。なぜなら、私にとっては、この色こそ生まれ育った故郷、いわき小名浜の海の色だからです。

私の家は、海のすぐ近くの社宅の一角にありました。道路を隔てて、旧小名浜高校があります。夏が近づくと、野球部員の声とともにボールを打つ音が聞こえてきます。その音を合図に、近所の子どもたちと家をとびだし、土手を上りグランドにでます。そして、内野、外野からもどってきたボールを拾い集め、バケツに入れるのを手伝います。今なら、危険だということでグランドにすら入れないでしょうが、当時の私たちは、ボールを拾い集めながら、野球に対する高校生の情熱を肌で感じていました。「ありがとう。また明日来いよ。」という部員たちに見送られて、土手を滑りおち、家に帰ります。

お昼を食べ終えると、午後は海での遊びです。手に手をとって松林へ歩き出すと、松の間から白い砂浜と青い海がのぞきます。履物を脱いだ素足の裏に感じる砂浜の熱さは、さらに私たちを海へと誘います。海に入るやいなや、「真珠だ、真珠だ。」と叫びながら、手に手に白い波しぶきの泡を取り合います。私たちにとっては、一瞬にして消えていくあの泡の美しさは、真珠の輝きと同じだったのです。海での遊びのクライマックスは、家から持参したキュウリとトマトを海へ投げ込み、波打ち際にもどってきたのを拾いあげ、砂浜に寝ころんで丸かじりする事です。潮のかおりがしみ込んだこれらを食べる事が、当時では何よりのごちそうでした。そして、海で遊んだ後の一番の楽しみは、「たらい」での行水です。遊んでいる間に、入れておいた水は、ちょうどよい温度にぬるんでいて、海水にぬれた体を母親の手のぬくもりのようにやさしく包んでくれました。

幼い時の毎日は、いつも遊び中心の生活でしたが、子どもたちの集団には年上の子を中心としたまとまりと、遊びのルールがあり、不思議な事にけがひとつせずに遊んでいました。

“われは海の子 白波の

さわぐ磯辺の 松原に”

今では、一昔前の話というより別世界の出来事だったような気がします。

(郡山市立安積第二中学校教諭)

 

 

 


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