教育福島0191号(1995年(H07)11月)-007page

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平成7年11月3日佐藤知事より晴れの表彰を受ける筆者

 

平成7年11月3日佐藤知事より晴れの表彰を受ける筆者

 

れたが、大正デモクラシーのにおいをかいでいた私であったから、常にわだかまりはあった。

六ヵ年を経て、図書寮から学習院図書館司書に栄転した。その頃、沼津の学習院遊泳場での現天皇陛下、当時皇太子殿下(初等科生徒)にお供をしたこともある。

やがて太平洋戦争へと戦火が広がっていく様を「内側」から見つめていた。「日本軍はだめかもしれぬ。そうなれば皇室も学習院も終わりだろう」と当時の学習院長山梨勝之進海軍大将の言葉を蔭ながら聞いた。当時政府が疎開をすすめていたので、学習院と福島県との交渉で、疎開を兼ね郡山に来た。

敗戦の前年である。ここで私を待っていたのは、郡山市立図書館創設の仕事であった。

郡山市には図書館がなかったので、戦時下の中で、図書館設置運動が盛り上がるという異常な事態が起こっていた。私は県の辞令で、市図書館の創設に奔走。空襲下の東京に出かけ疎開する人たちの本を集めたりした。二十年四月、一兵卒として応召、横須賀海軍に入隊し五ヵ月で終戦、復員したが軍隊の醜さをいやというほど体験した。

敗戦によって、アメリカから民主主義が押し寄せて来たが、そこに至るまでの市民の価値観の右往左往ぶりをこの目で見つめていたのは、私たち明治生まれの人間かも知れない。

私はかつて宮内省の役人(下級職員)として、この戦争を肯定する立場にあり、協力した立場にあったという反省と、日本は大きな侵略戦争(後でわかったが当時は聖戦として認識した)を犯したという思いが、私の戦後に重くのしかかっていた。私の著書の多くは、こうした反省が出発点となった。なかでも「郡山戦災史」は、この立場を強く認識し、再びあってはならない戦争、空襲の悲惨さを訴えるべく、精力的に取り組んだ本である。

今回の受賞を記念し、いま「私の本の履歴書」の出版に取り組んでいるのが、明治生れで、大正、昭和、そして平成の今日まで生きて来た私の人生なのである。

 

【著者紹介】

山崎義人・やまざきよしと

〔略歴〕

明治四十二年 福島県生まれ

昭和六年 宮内省図書寮雇員

十三年 学習院図書課書記

十九年 福島県(県辞令)郡山市図書館司書

二十一年 福島県地方事務官(勅令第二一四号により官制改正・三級)

二十三年 福島県立図書館郡山分館長

二十三年 福島県(県辞令)郡山図書館長心得

二十五年 北日本図書館連盟理事

二十五年 郡山文化協会理事兼事務局長

二十六年 郡山市図書館長(地方自治法改正により郡山市立図書館として独立)

二十七年 福島県図書館振興対策委員会委員長

三十三年 郡山市図書館建設協力会事務局長

三十五年 福島県考古学会副会長兼事務局長

三十六年 福島県立図書館協議会委員

三十六年 福島県公明選挙推進委員会委員長

三十八年 郡山市地方史研究会幹事兼事務局長

四十一年 郡山市史編集委員兼幹事

四十一年 郡山市史編集室長

四十一年 福島県公共図書館協議会副会長

四十三年 郡山地方史研究団体連絡協議会会長

四十六年 郡山戦災を記録する会事務局長兼編集委員長

五十年 郡山社会教育指導委員

五十二年 福島県児童文学研究会顧問

六十年 郡山市文化団体連絡協議会顧問

平成元年 郡山文化協会会長

 

 

 


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