教育福島0191号(1995年(H07)11月)-022page

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校庭で子どもたちは黙々と練習に励んだ。特に女子リレーは一人一人の走力は高いもののバトンパスがうまくいかず、思うように記録が伸びなかった。時には落ちたバトンを握りしめながら涙を流すこともあった。それでも教師は心を鬼にして指導にあたった。子どもたちもよくついてきた。大会が近づくにつれて、一人一人が自分の立場を自覚するとともに、互いの絆がより強くなっていくのが手に取るようにわかった。

大会当日、女子リレーは心配されたバトンパスも見事に成功し、予選を一位で通過することができた。そして、この時点でだれもが優勝を確信していた。ところが、第一走者のSが個人種目の百メートル走の際に右足を痛めてしまった。決勝の対応を指導者間で協議したが、S本人の意志、そして今までずっと一緒に練習してきた六年生全児童の希望を考慮し、そのまま出場させることにした。しかし、Sの足の痛みは気力だけではどうにもならず、結果は決勝最下位の六位であった。

レース後、泣きじゃくるSにかける言葉さえ失い、一緒に涙している担任の教師に、他のメンバーが駆け寄り、「先生、私たちはビリだってがんばったし、満足だから」「Sちゃんがんばったね」と声をかけ合っていた。応援席にいる子どもたちからも四人のがんばりを讃える声が盛んにかけられていた。なかには感極まって涙している子もいた。まさに子どもと教師がつくりあげたドラマの光輝くワンシーンであった。

日々の教育活動の中で繰り広げられるドラマすべてがハッピーエンドというわけにはいかない。しかし、そこに至るまでの過程はまさしく子どもと教師の「メイクドラマ」であり、その一つ一つは、やがて光輝く名場面に昇華していくものと思う。

(塙町立常豊小学校教諭)

 

自然を感じて

橋本徹

 

。このような、小さな発見をしたときは、何かうれしくなってくるものである。

 

毎朝、駅伝の練習を見にいく前に眺める楓(かえで)の木がある。その楓(かえで)の木がこのところの冷え込みで色づき始めてきた。このような、小さな発見をしたときは、何かうれしくなってくるものである。

「校庭の周りの桜の木の中で一番早く花が咲くのは、どの木か分かりますか」

着任式で、先輩教師があいさつの中で述べたこの言葉が、教職二年目の私の目を開かせてくれた。私は、大学は農学部で学び、植物や動物のことについての知識は人一倍あるつもりだった。しかし、校庭の桜の花がいつ咲くのか、校庭にある桜の木がどんな種類なのかなど、気にもしていなかったのである。その日、校庭の桜の木を一本一本見廻ってみると、 一本の山桜のつぼみが大きくふくらんでいるのを見つけた。

子どもたちに自然の素晴らしさを教えたい。これが教師を志した第一の理由であった。私の知識や経験の中から自然の素晴らしさを子どもたちに伝えられると思っていた。しかし、先輩教師の言葉から『自然の素晴らしさを教える』のではなく、『自然の素晴らしさを子どもたちと一緒に感じていこう』と考えるようになった。毎朝の短学活で私自身が感じたり、見つけたりした自然の変化を子どもたちに話すようにしてみた。すると、子どもたちもそれまで以上に登下校途中や、校舎周辺でみつけた自然の変化を話してくれるようになってきた。子どもたちに自然に目を向けさせようとするならば、やはり教師自身が、自然の変化に敏感でなければならないと感じている。

今、阿武隈山地は、秋真っ盛りである。山道をゆっくり歩くと様々な種類のキノコ、アケビ、山ぶどうなどが目に入ってくる。校庭の桜の木には、色づいた葉の元に、来年の春を彩る花芽や葉芽ができている。

『木には木の心』『石には石の心』を感じて自然と一体となり、日々を過ごしていきたい。そう思うと、一本の樹木でさえ、様々なことを教えてくれる。

あるとき、校舎の前の植え込みの一本の楓(かえで)を眺めていると、生徒の一人が、「先生は、木と話をしているようだね。何を話しているの」と、声をかけてきた。木と話をしていた訳ではないが、毎日のように見ていると、木の声が聞こえてくるように思うことがある。統合前の学校からもってきて、弱って枯れそうだったこの楓 (かえで)も、今年ようやく勢いのいい新芽が伸びた。自然の恵みの素晴らしさ、動植物の営みの神秘性を子どもたちと共に感じていきたい。

(船引町立船引南中学校教諭)

 

 

 


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