教育福島0192号(1996年(H08)01月)-028page

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も、すっかり小さく目立たなくなった。ちょっぴり、さみしい気持ちもするが…。

お正月。新しい年の訪れとともに届けられる年賀状をめくりつつ、傍らに当時の文集を置き、

「そうだ。こんなことも書いていたんだっけ」

と、その成長ぶりに思いをはせる。これが、ここ数年のわたしにとっての定番の正月の風景になりつつある。多くの子どもたちに感謝しつつ、今年も存分に楽しむつもりでいる。

(いわき市立高久小学校教諭)

 

命の輝きを

菅野カヅ子

 

遠山に陽の当りたる枯野かな

 

遠山に陽の当りたる枯野かな

虚子

「どこかで見たことのある景色である」目の前に限りない枯野が広がっている。そしてそのずっと奥に山並みが連なっている。よく見るとその遠山にのみ暖かい陽が当たっている。そんなことを思わせる虚子の代表的な俳句の一つである。遠く陽の当たっている山にこそ、幸せが住んでいるかのように思えてくる。今、自分は人生の枯野を歩むものであってもよい。陽の当る山並みに続く一歩を歩んでいるのであると思えば。そんなふうな世界を歌うこの俳句を私は好きである。

私の句友の一人が、先日腎臓を摘出する大手術をされた。お見舞いに伺った時はだいぶ落ち着き、杖をついて支えながら歩行が出来るまでに快復されていた。前にも大手術されたとかで、「これはぼくへの試練なのですね」と言いながら、今の自分の楽しみを語られた。それはベットに寝起きする今の限られた世界で、自分を表現する俳句に喜びと生きがいを見い出しておられるという事であった。彼もまた虚子と同様に「陽の当る遠山」を心に描きながら、生きておられるのだと実感することが出来た。そろそろ退院のお話が聞こえてくる事を期待していた私に、飛び込んできたのは、さらに腸を一メートル程切り取ることになったということであった。なんという事であろう。心の支えとなる俳句をもう一本の杖として、なんとか頑張っていただきたいと祈るばかりである。

七十歳をとうに越えておられるのにほとばしる心の若々しさ、優しさ、探求心は、病いの姿を借りてほとばしりはじめたのだ。私はここに命の輝きを見る思いがしてならない。

伝統俳句「ホトトギス」系の結社で学ぶようになってから、私は自分のどこかが、変わったような気がしている。道を歩いていても、常にまわりに気を配りながら行くというふうに。名もない道端の草も、空ゆく雲も、そして季節をはこぶ風の音も、みんな気になってしようがないのである。そして自分がここに存在していることを、強く感じさせられるのである。ある日どこかで芽生えていたことを感じるのである。そのあふれる想いを、どんな言葉で俳句に表わせばいいのであろう。

陽の当たっている遠山を心に描きそして求めながら、私も彼の命の輝きに、あやかりたいものだと思っている。希望や夢は人にはかり知れない力を与えるものであるから。

(伊達町立伊達中学校教諭)

 

あるがまま、ありのまま

渋谷正貴

 

「あるがままの姿をありのままに見る」

 

「あるがままの姿をありのままに見る」

これは大学時代のある先生から、指導者の心構えのひとつとして教えられたことばである。目の前に起こる現象を、自分の思い込みや好き嫌いといった色眼鏡を掛けて見るのを戒める意味が込められている。先生と呼ばれるようになって三年になるが、このことを忘れたために失敗した苦い経験がある。

バスケットボール部の顧問をしている私は、チームを持ったばかりのころ、過去の自分の経験をもとに指導することが多かった。間近に迫った大会への焦りから、このくらいのことはできるだろうということを前提にした練習課題を次々と選手に与えていった。しかし、結局はどれもみ

 

 

 


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