教育福島0193号(1996年(H08)02月)-019page
った祖父のことを思い出した。祖父には三人の息子と四人の娘がいた。終戦の前に上の娘二人は嫁ぎ、息子は三人とも召集されていた。次男は昭和十八年二月激戦地ガダルカナル島で戦死。三男は終戦の前日の昭和二十年八月十四日に中国海南島で戦死。そして、将校であった長男は同年八月十八日、短銃で自らの頭部を撃ちぬいた。戦争が終わって三日目だった。息子たちの帰りを待ちわびた祖父と祖母に届いたのは、三人の死亡通知だけであった。長男の死を知った日の夜、祖父は娘(私の母)の布団をめくり、寝顔を見つめては深いため息をついた。当時仏壇には軍刀があり、母は死を覚悟していたという。祖父は、生と死の選択を自分自身に迫っていたのだろう。死を選べばその場の悲しみから逃れられる。生きることを選べば一生その悲しみを背負い、さらに大きな苦しみが待っているかもしれない。そんな中で、祖父が選んだのは生きる道だった。しかし、その道には次々と苦難が待ちかまえていた。妻の病気、多額の借金…。
実家には、祖父が建てた「平和観音」という観音像があり、台座の裏に祖父と長男の歌が彫り込んである。
「いつの世も変わらぬ慈悲の観世音
守り給えや世界平和を」
「時来れば散りなむ身なら桜花
虚ろなる身に吹けよ春風」
祖父とその長男が選んだ道は、この歌のようにまさに対照的であったと感じる。伯父は家族を深い悲しみに追い込み、祖父は生きることを選び、そして生きぬいた。だから、母があり私自身があるということを痛切に感じる。当時の社会の風潮を考えると伯父の行為は責められないが、少なくとも生きて帰ればという思いが残る。しかし、息子三人を失った祖父から社会への悔みの言葉は一度も聞いたことがなかったと母は言う。しかも、受け取っていた軍人遺族年金のほとんどを社会福祉に、と寄付し、家には入れなかったそうだ。
今日の世に限らず、日本の社会は自殺をあまりに美化しすぎてはいないだろうか。自分を殺すという罪。周囲の人に一生深い悲しみを背負わせる罪。生きることの選択は、死を考えている人にとって確かに苦しいことかもしれない。母から聞いたこの事実を私は語り継いでいかなくてはならない。生きることを選ぶことにこそ大きな価値があり、真正面から生きていることこそすばらしいことなのだということを。
(古殿町立宮本小学校教諭)
あたり前のこと
北野英樹
この三月、初めて四国へ行った。松山はちょうど桜が咲き始め、東北から行った我々を一足はやく春の気分にさせてくれた。一緒に行ったのは吹奏楽部の生徒九名と教頭先生、そして保護者の方数名であり、四国行きの目的は全日本アンサンブルコンテストへの参加のためであった。その時の主力であったメンバーも、今は一応部活動を引退し受験へ向けて頑張っている。時折、顔をながめると、なにか「ホッ」としたような安心感が漂う。一緒にひとつの目標に向けて頑張った仲間、そして、お互いに信頼し合った同志だからであろうか。
そんな彼らに私が常に要求してきたのは「あたり前のこと」であった。
三月に続いて、この十月に東京の普門館で行われた全日本吹奏楽コンクールに出場し、初出場ながら金賞という成果をおさめることができたのも、この「あたり前のこと」の積み重ねの賜物だと思う。
つまり、彼らには、部活動以外にきまりを守ること、あいさつをすること、時間を守ること、仲良くすることなど、実に「あたり前のこと」を要求し、音楽の中では、リズムを合わせること、音程を合わせること、音の形をそろえることなど、本当に「なんだ、そんなこと」というようなことを何度もしつこく要求してきただけのことである。
よく人から、どんな練習をしているのですか。というような質問をうけることがある。前に書いたような誰でもやっていることしかやっていない私は、答えに困ってしまう。
しかし、よく考えてみると、この「あたり前のこと」が意外にむずかしい。私自身のことを振り返っても提出物の期限が守れないことや約束の時間に遅れることなど、あげればきりがない。
そんな私が生徒に要求するのだから全く勝手なものである。そうだからこそ、「あたり前のこと」がきちんとできることが、やはり価値のあることなのである。
そして今後もこのことを自信をもって生徒たちに要求していこうと思う。なぜなら、生徒たちが卒業生を