教育福島0194号(1996年(H08)04月)-022page
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でいっぱいになり、応急処置が思うようにできなかったり、朝は元気だったのに、熱が上がりぐったりして来室する子。
「どうしたの」
「どこが痛いの」
と、聞いてもはっきり受け答えのできない一年生。
半熟卵のように崩れやすい子供の体。中学生対象とはまた違った児童の健康管理や保健指導など、養護教諭の役割と責任の重大さを痛感させられました。
保健室には、応急処置の他にも、毎日たくさんの子供たちがやって来ます。家の出来事や勉強のこと、友達のことなど、仕事をしていても雑談の相手をさせられてしまうこともたびたびでした。
「保健室は学校のオアシスである」と、言われるように、子供たちが心身を休め、温まることのできる場所でありたいと願いながら、指導の難しさや大切さを深く感じています。
そして、いつの間にか、
「先生、歯みがきカレンダーは、いつわたすの」
「今度の委員会活動はTV朝会の発表です。資料を作りにきました。」
と、あれ程小さく見えた子供たちがとても大きく見え、これまでの保健指導の成果が、子供たちの心の中に芽生えてきたことを感じ、ささやかな満足感に浸るひとときです。
現在は、また中学校勤務となり、心身の変化に富む生徒を相手に悪戦苦闘の毎日です。児童から生徒への成長をたどりながら、日々変化する環境の中で、ガラス細工のようなもろい中学生。しかし、
「保健室はいつも心のオアシスでありたい」
と、願っている昨今です。
(大熊町立大熊中学校養護教諭)
ひざと相談しながら
加藤俊哉
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私は、両ひざとも半月板を損傷している。
高校時代、部活動でハンドボールをやっていたことが、このけがとのつき合いの始まりである。それ以来幾度、ひざを痛めてきたことだろうか。初めは、左ひざだけだったのが両ひざになり、そして、それがくせになってしまった。
医者に、「年をとったら、ひざに水がたまりますよ」とか、「運動選手でないのだから、高いお金をかけてまで、手術する必要はありませんよ」などと言われながら、二十年以上も医者通いをしている。
元来運動が嫌いな方ではないので、けがをした後もいろいろな運動に挑戦してきたが、少し無理をするとすぐにひざを痛めて、やめてしまうことが多かった。
しかし、けがに悩まされながらも続けられた運動もある。
初めの赴任地は、体育にスキーの授業がある学校であった。中通り出身の私は、それまであまりスキーなどやった経験がなかったので、当然のことながら子供たちの方が上手である。そうはいっても子供より下手なのはやはりくやしい。そこで、練習することにしたが、当時ナイタースキーができるのは、猪苗代スキー場しかなかった。学校が終わるとすぐ、スキー場に向かって車を一時間近く走らせ、終了時刻の午後十時まで滑ったものである。年間五十日以上も、いろいろなスキー場に通い続けた。おかげでなんとか子供たちと同じレベルぐらいまでになれた。
不思議なもので、スキーをしている時は、ひざを痛めることはなかった。それ以後スキーはずっと続けている。県内のスキー場はほとんど滑ってしまったし、海外にも滑りに行くことができた。
次の赴任地は、県内最大のマラソン大会「東和ロードレース」が行われる近くの学校であった。子供たちとの練習中の約束で私もなんと大会に出場することになってしまった。「十キロなどたいしたことないだろう」と甘く見ていたのがいけなかった。東和のコースはアップダウンが多く厳しい。レースの途中で何度となくやめようかと思ったが、子供たちのあたたかい声援により、何とか最後まで走り抜くことができた。また、これを契機にたばこを止めることもできたのである。
それ以後も、いろいろな運動に取り組んでいる。時々、寒さや壊れた軟骨の移動のために痛むこともあるが、今後も子供とともに歩むためにひざと相談しながら挑戦していきたい。
(会津若松市立共和小学校教諭)
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