教育福島0195号(1996年(H08)06月)-024page

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歌を覚えた後は、音楽室の隣のホールで振りつけのけいこを始めた。一斉練習の後、各グループごとにメロディーを口ずさみながら練習し、互いに教え合う姿も見られた。こきりこの「カシ、カシ」という音に、子供たちも次第に魅せられていったようである。

発表会の場を、「親子卒業を祝う会」にしようと持ちかけたところ、「やってもいい、できそうだ」という意欲がどの子にも見られてきた。また、体育の表現運動でも、「ソーラン節」に取り組み、体育館で漁師の労働の様子を体いっぱいに表現していった。海上でのニシン漁の様子をリアルに表現するため、櫓(ろ)は五メートル近い竹竿(ざお)や体操用棒を用意し、他に魚をすくうタモ網、網を引く綱、魚を入れる背負いかご等も準備して、振り付けの一つ一つの動作の意味や力強さを理解しながら進めていった。

初めのうちは、照れながら踊っていた子供たちも次第に熱が入り、発表への意欲も見えてきた。授業参観の日には、踊りの練習の様子を見た保護者の方々から、「衣装はどうするのですか」と心配の声が上がり、「豆絞りぐらいで…」と伝えたところ、育成会から法被(はっぴ)を借りてくれることになった。女の子たちも「着物を着てみては」ということになり、衣装の方も本物はだしになってきた。

さらに、笛や太鼓でお囃子(はやし)を付け加え、雰囲気が出てきた頃には、どの子も「ぜひ発表したい」という主体的な気持ちに変わっていった。

こうして、振り付けを覚えながら男女がまとまり、日本の文化を大事にしていこうという心や態度が、次第に身についてきたようである。やがて迎えた三月二十二日。「卒業を祝う会」のアトラクションで、子供たちは会場狭しと、漁師や翁になりきって踊り、多くの拍手を浴びながら中学校へと巣立っていった。

私は目頭に熱くなるものを感じた。

(須賀川市立西袋第一小学校教諭)

 

失われた特権と束縛

中澤咲

 

り、一抹の寂しさを感じる一方である束縛から解き放たれた喜びも感じている。

 

ここ二年間、私は職場で「一番若い女性」という甘美な響きの裏に悲劇のヒロインを思わせる立場にあった。今年その座を去ることになり、一抹の寂しさを感じる一方である束縛から解き放たれた喜びも感じている。

寂しさというのはもちろん、自分が一番若く、美しい(おっとこれは余計だ)という事実がなくなってしまったことと、若いが由に許された失敗が沢山あったのだが、これからは許されないということである。周りの方々に支えられそれに甘えてきたがこれからはそうもいかず、親の愛情を生まれたばかりの妹弟にとられた様な心境である。

解き放たれた束縛というのは諸会計や記録、お茶くみである。会計や記録は同じ若い人でもなぜか女性が多い。細やかだから男性よりも向いているのかもしれないが、私個人のことを言えば大ざっぱな上に字は汚ないので適役とは言い難い。にも関わらず昨年は生徒会を始め五つの会計を担当し、校内にとどまらず出張先でも何度となく記録をすることになった。しかし今年はもっと若い女性が入ってきたことと「担任」という強い免罪符(?)のお蔭で役を降りることになった。

そしてお茶くみであるが、これは「一番若い女性」にとって精神的負担の大きいものである。本校がお茶くみは若い女性の仕事と前もって決められていれば「男女同権」などと叫んで反発したのだが、本校の男性諸氏は非常に現代的な紳士で「お茶は自分で入れる」と言ってくれた。素直な私は額面通り受け取って朝全員にお茶を入れたことはない。しかし、言われないからこそ「せめてお湯は沸かしておこう」と思い、初任の年の半年間だけは沸かしたが、半年坊主になってしまった。そのことにはずっと負目があり、朝、年上の男性が沸かしたお湯でお茶を飲むことはできなかった。しかし今年は二番目に若くなったので責任が薄れた分、コツコツと飲むようになった(その代わり毎日流し場はきれいにしてから帰っていると言い訳しておこう)。

一緒に大学を卒業して企業に勤めた友人はお茶くみコピーとりに嫌気がさして退職してしまった。たかがお茶くみ、されどお茶くみ。「一番若い女性」を環境の良い職場で乗りきった今、自分の幸せをかみしめ日々感謝している。

(県立南会津高等学校教諭)

 

 

 


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