教育福島0196号(1996年(H08)07月)-024page

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間もなく、組太刀の稽古を覚えました。技の習得と同時に相気の状態を継続する必要から、安定した気を鍛練することができ、試合をする上でも大変役に立ちました。

また、組太刀の稽古は、「かつての修羅場」を経験するかのような状況を作り出すことができ、武道が究極の目的を「非常心の養成」としていたことをまざまざと実感させられたこともありました。先達が絶対的な価値観による「兵法の勝ち」を前提に技を組み立て、創り上げられてきた組太刀には、その理念を含め、大きな畏敬の念を感じてしまいます。

我が国の長い歴史と伝統に培われた剣道は、近代スポーツとしての要素を身につけ、今日、現代剣道として発展を遂げています。剣道で使う稽古ということばには、古の技を正しく覚え伝える意味が含まれますが、現代剣道には、古来の多彩な剣道の技の存在を消し去っても、試合に使い易い技を充実させれば成り立つ側面もあると思います。しかし、発達段階に応じた指導内容に違いはあっても、指導者自身がもっと数多くの技や「遣い方」を習得できるような機会をつくる必要があると思います。

さて、表題の「残心」は、大学時代の恩師が自分の手拭いにしたためていた言葉です。この原稿を書くに当たって、自分が先生の当時の年齢になっていることに気付いて、あえて表題とさせていただいた次第です。

行政の仕事に携わり、ここ数年は稽古時間がめっきりと減っていますが、なんとか機会を見つけて稽古に励んでいきたいと思います。どうか、どこかで案山子のように打たれている姿を見かけた方は、激励の意味を込めて一声かけてください。

(スポーツ健康課指導主事)

 

心配をよそに

阿部順子

 

うな気がする。今までより実物の提示が多くなってきているからでもあろうか。

 

「植物は、デンプンや酸素を作ってがんばっているなんてすごいですね」と光合成の授業中にいきなり感想を述べる生徒。「部活が終ってから摘んできました」と十数種類の野草を手にする女子生徒たち。例年より積極的だと思っていると、消極的だった二年の男子生徒が「ヘビをとってきたよ」とペットボトルにシマヘビを入れて持ってきた。ハチュウ類の学習中である。いつもより生徒たちの目が輝いているような気がする。今までより実物の提示が多くなってきているからでもあろうか。

いろいろ考えをめぐらすと、思い当たるふしがある。生徒の目の輝きは今年度から始まった教科教室型校舎での学習がきっかけになっているようである。

二年前に、まわりが透明な明るい体育館が作られ、昨年度末、本のぬぐもりのある教科教室型の校舎が完成した。チャイム着席ができないのではないか、生徒指導面での不安はないかなど心配もされたが、今のところ大きな問題もなく、生徒たちは実に生き生きと活動している。

学級という枠が取り払われたためか、授業も多様化している。数学科では、生徒がお互いに教え合い、先生は時折回ってきて助言を与えたりする。黒板は難易度によって三面が用意され、それぞれが、一生懸命問題を解いている。英語科では旅行センターのように各国のパンフレットなどが掲示され、元気な声が響きわたる。広い多目的ホールの一角には八畳程度の畳の間があり、自由な格好で学習会を開いている。その他の教科でも課題解決学習などに取り組み、生徒が互いに調べたことを発表し合っている姿もよく見受ける。

なお、体育館の透明なガラスも割れることなく、生徒たちは青春のいい汗をかき、それぞれの成果を上げている。

このようないろいろな姿を目にしてから、生徒というものはうまく環境に順応し、輝いて生きていけるすばらしい存在だと強く思うようになった。それを証明するかのように、大沼郡中体連大会の最終日、二対七で敗色濃厚と思われた野球の試合が、最終回に九対七と土壇場の逆転劇で見事勝利を手にしたという知らせが舞い込んできた。

年度当初の我々の思いは結局取り越し苦労に過ぎず、いろいろな心配をよそに、生徒たちは不可能と思われることでも可能にする力を秘めていることを知ることができた。生徒たちがより大きく見える今日このごろである。

(会津高田町立第一中学校教諭)

 

 

 


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