教育福島0196号(1996年(H08)07月)-028page

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がらないように支えてやること。これらが教師の仕事かなとおぼろげながら教員生活十数年を経て感じています。

まだまだ今どきの子供は未知な面が多く驚かされることばかりですが、生徒会指導を通して得たものを大切に、伸びる芽に対して支援をつづけて行きたいと思います。そして今度教育方針を問われたら、「援助する教育」とこたえようと思います。

(東村立東中学校教諭)

 

チャレンジ!

武田早知子

 

そんな中で将来の夢が実現したのは私だけであり、ちょっぴり自慢できました。

 

私が幼稚園の先生になりたいと思ったのは、小学校六年生の時でした。小さい子の面倒を見るのが好きで、よく近所の子を見てあげました。そして卒業文集に、「大きくなったら幼稚園の先生になりたい」と書いたのを今でも覚えています。あのころ、同級生はパイロットやスチュワーデス、中には大会社の社長と書いた人もいたようです。そんな中で将来の夢が実現したのは私だけであり、ちょっぴり自慢できました。

最初に勤務した幼稚園では、人数が最高に多い時で四十五人もの園児を一人で受け持ったことがありました。今では考えられないことですが、あのころは無我夢中でした。七年後に勤務した現幼稚園は、人数がぐんと減り、多くても二十六人でした。入園式で呼名をしてもあっという間に終ってしまい、何か物足りなさが感じられました。あれから十数年が過ぎ、最初の教え子は二十四歳になりました。すでに結婚した子もおります。当時の写真を見ては時々思い出しています。

教職生活十数年になりますが、最近は、家族の庇護のもとで何でもしてもらうことが多く、自分なりに考えて判断したり、やってみようとする意欲に乏しい幼児が増えてきているように思います。幼児は本来能動的で、自ら感じたことを何らかの形で表現しようとする力を持っているのです。それらを引き出してあげるのは、私たち保育者です。昨年の運動会を例にあげると今までの運動会とは違って、テーマを持ったことで、幼児たちは運動会当日までずっと忍者のイメージでいろいろな修業を積んできました。そして、運動会当日は最高点に達し、大いに盛り上がりを見せてくれました。また、探険に出かけては、川をとんだり、土手を登ったりするなど、少しずつたくましさが見られるようになってきました。また、料理を取り入れて幼児たちがそれぞれ分担し、一つの物をみんなの手で作りました。その時の喜びがもとになり、「やればできる」「やってみよう」という気持ちが出てきました。何事にもチャレンジ!。私自身も言いたい言葉です。

本年度は、お泊まり保育にチャレンジです。保護者の方に趣旨を理解していただいて、ぜひ成功させ、自立心やたくましさをさらに育てていきたいと思います。

私自身これからも、どしどし新しいことにチャレンジしていく勇気を持ち、無限に広がる幼児たちの夢を叶えてやるための努力を惜しまない保育者でありたいと思っています。「何事にもチャレンジ」私の好きな言葉です。

(大玉村立大山幼稚園)

 

バレーボールを通して人間づくり

増子格

 

を怒る度に、恐怖のあまり泣き出したこともかすかな記憶として残っています。

 

私とバレーボールとの出会いは、今から二十七年程前になります。両親がしていたこともあり、物心がついたころには既にバレーボールを転がして遊んでいたと聞いております。小学校のころは、近くの女子高校の練習を見学に行っては、練習の厳しさや熱気に圧倒されたり、監督が選手を怒る度に、恐怖のあまり泣き出したこともかすかな記憶として残っています。

中学校からは部活動として本格的にバレーボールを始め、高校、大学、そして教員になってからも教員チームにと、今までの人生のほとんどがバレーボールに関わってきました。生徒への指導も今年で九年目に入り、自分の理論、指導方法も次第に

 

 

 


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