教育福島0196号(1996年(H08)07月)-034page

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心に残る一冊の本

 

霧を裂く光

県教育庁教育次長

杉原陸夫

 

ない。その様な閉塞された状況に我が身があると思い込んでいた時期があった。

 

岩場を歩いている。一帯を濃霧が覆い尽くし、周囲の霧は見えているのに進むべき道が見えない。その様な閉塞された状況に我が身があると思い込んでいた時期があった。

また、小学生になる前年の終戦の年、私に何の断わりもなく、母と父が続いて彼岸に旅立ってしまったことから始まる身の不運を嘆く傍ら、その対極の行動として、斜に構えて視、虚勢を張り、偽りの言葉で身を飾るという生活を重ねる時期があった。青年期の頃である。

その頃の或る日、この本に巡り会った。著者は、あのアウシュヴィッツという収容所に囚われ、生きることの限界状況の只中にあって絶望と闘い、奇蹟的に生還しえたヴィクトル・E・フランクル博士である。

この本を手にした動機は、私の生い立ちにも深くかかわる今時の大戦への道を、理性ある人々が何如たどることになったのかを知る手がかりの一つでも得られるのではないかと思ったことにあった。しかし、読み進む中で出会う博士の言葉一語一語が、乾ききって荒んだ私の心に語りかけ、当時の私の生き方がどんなにか甘く軟弱で、狭く小さな洞窟の世界の中の独りよがりのものであるのかを省みさせてくれたのである。

○彼自身の未来を信ずることのできなかった人間は収容所で滅亡していった。未来を失うと共に彼はそのよりどころを失い、内的に崩壊し身体的にも心理的にも転落したのであった。

○ここで必要なのは生命の意味についての観点変更なのである。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。

私の再生の原点がこの本にある。

 

本の名称:夜と霧 フランクル著作集1

著者名:ヴィクトル・E・フランクル(霜山徳爾訳)

発行所:みすず書房

発行年:第一刷 一九六一年三月五日

 

「可能性を拓く」

会津坂下町立片門小学校教頭

笠原悦夫

 

ぐらされた、一本一本の糸をたぐる著者の『目』は、やさしく、そして厳しい。

 

「授業とは何か」、言葉のうえだけの空疎なやりとりではなく、胸に突きささる具体的事実によってこの問題に切り込んでいるのが本書である。その中で、授業の構成要素の間に張りめぐらされた、一本一本の糸をたぐる著者の『目』は、やさしく、そして厳しい。

このような「授業への取り組み」について、思わず一気に読んでしまう。いや、一気に読んでしまうというのは正確ではない。文の一つ一つに、はたと思い当るふしがあり、自らの体験を重ね合わせながらあれこれと考えを巡らし、そして快い緊張感を味わうことができるといった方が正確だろう。

この本では、授業の本質や原則また授業が成立するための基礎的な条件などについて、六つの章で展開されている。それらの主張はまさに今の時論にも当てはまるものであり、その不易性は随所に醸し出されている。例えば、一人一人の可能性を引き出すための「子どもをみる目」や「教師の働きかけ」に言及している部分は、変化の激しい今日においても新鮮な光を決して失わないし、「創造的な授業」について述べている部分においてもそれは同様である。

また、著者の主張には必ずといっていいほど『二つの視点』を読み取ることができる。一つは、豊富な授業実践に裏付けられた「実践家の視点」であり、もう一つは実践で理論を語る「理論家の視点」である。授業の事実や子供の事実、教材の事実から、理論や方法を創り出していったその軌跡に、私はある種の衝撃さえ覚える。

授業というものへの新たな方向性を見いだす『一つの重要な契機』を与えてくれた本書は、私にこう呼び掛け、叱咤激励する。

「授業の可能性を拓くことは、取りも直さずあなた自身の可能性を拓くことでもある」と……。

 

本の名称:授業の可能性

著者名:斎藤喜博

発行所:一莖書房

発行年:昭和五三年四月二〇日

 

 

 


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