教育福島0197号(1996年(H08)09月)-028page
連続であった。かつて生徒として悩んだことを、逆の立場の教師としても悩まなければならなかった。「人を教え導くとはどういうことなのか」、考えれば考えるほど泥沼にはまり、出口が見えなぐなってしまい、書物に救いを求め、自分と現実とのかかわりを見失っていた時期もあった。
あれから約十年を経た今、私は私の問題を解決したのだろうか。多忙な毎日に追われ、深く考えることを避け、ただずるくなってしまったような気がする。
「初心に返ろう」
子供たちの願いをしっかり受け止め、ともに本音で語り合い、そして喜びに満ち溢れた子供たちの笑顔を見るために。いま、パソコン通信という自分の視野を広げるための新しい鏡を得たのだから。
(飯野町立飯野中学校教諭)
独り歩き
熊谷章二
私は、昭和五十二年四月に本校の無線通信科に入学して以来、「船舶通信士」になることを叩き込まれてきた。卒業後、県の練習船に乗船、通信長の通信助手をしていた。
仕事を覚えてくると「早く独り立ちしたい」と思うようになり、後に資格取得のために退職した。その後国家試験に合格し、目指す「通信長」への切符を手にし、早々に職を求めることになり、海運局から紹介された会社に連絡をとった。この時、私は二十一歳。採用条件は「二十五歳以上」であったが交渉成立!「松山より乗船、交代して下さい」の電話が入り、松山へ向った。
憧れの国際航路商船の通信長としての一歩が始まった。指揮下には司厨部の二名(四十八歳以上)、資格の世界とは聞いていたが、現実となると不安が頭を過ってしまった。
神戸港より香港へ向け出発。夜の神戸もロマンチックであったが百万ドルの夜景と言われる香港に胸躍らせていた。しかし、此処からが悪夢の始り。職長として、私が持っているのは「資格・学校で習ったこと・授業の中で先生が話してくれた経験談などとちょっぴりの通信の経験であった。
沖縄通過後、主無線機が不調となり点検したが、絶不調となってしまった。関係国への通過及び到着予定、会社への動向などの連絡の業務があり時間制限がそれぞれ限られている、又、目的地も近づいていた。予備の無線機はあるが、出力が小さく通達距離が短い。そんな中で、原因調査、復帰、業務処理を同時進行しなければならない状況となった。経験豊富な人であれば、原因究明や関係国との緊急連絡等を取る手頃、方法は瞬時判断すると思うが、聞ける人もいない。通信長としてのプライド?もあって苦悩する時間が過ぎた。この時、感じたことは、「もっと下積みをしておくべきだった。経験を積んでおけばよかった。あまり背伸びをしないこと」を痛感した。特に資格を必要とする職業では、一息ついてもう一歩だけ待って経験を積んだ方が自分の成功につながると思う。
初任教諭として、各種研修会に出席参加することにより教師としての資質の向上と知識の深化、指導力の向上に努めている現在、学ぶことは知ることであり、それは生きる力であることを再認識した。今後、教師として生徒の指導に専心し、決して侮ることなく、過去の経験を踏まえて、多くの資格取得を目指す生徒たちに機会をとらえ話して、名実ともに有資格者として独り立ちさせたいと思う。
(県立いわき海星高等学校教諭)
オープンまで
鈴木三雄
高学年を担任して一番の楽しみが自然の家での「宿泊活動」だった。それが終わった時、子供たちは一様に言ったものだ。「先生はいいなあ、何回も宿泊活動に行けて」小学校時代の最高の思い出として「宿泊活動」をあげる子供が多かった。友達と夜遅くまで話をしたり、班が一体となり野山をかけ巡ったり、学校とは全く異なった環境の中で過ごす日々は、彼等にとって本当に有意義であり、楽しいものなのだろう。
いわきに出来る自然の家の開設準備を担当した昨年一年間、これからの自然の家のあり方を徹底して調べてみた。社会が変化している、学校