教育福島0200号(1997年(H09)01月)-011page

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「教育福島」創刊の頃

桜の聖母短期大学講師

松浦淳一

 

キャッチフレーズに転換した四十八年、私は教育庁で広報を担当していました。

 

ドラッガーの作品がベストセラーになり、団塊の世代が社会に進出して行った昭和四十年代−。日本列島改造論をばねに高度成長を続けていた我が国の経済界が、オイルショックを契機に、消費は美徳の時代から節約は美徳のキャッチフレーズに転換した四十八年、私は教育庁で広報を担当していました。

当時の係の主な仕事は、印刷媒体の発行が「教育月報」年十回「教育速報」十三回を中心に、「教育年報」「福島県の教育」「教育便覧」の五誌紙。電波媒体での広報が「茶の間の県政」「みんなの広場」「みなさんと共に」の二番組で年間十二本。そして教育長記者会見の設定、地区別教育広聴会の開催、市町村教委広報担当者研修会の実施、更には随時行う記者クラブでの発表など今も同じだと思いますが、けっこう忙しい毎日でした。

そこに飛び込んできたのが石油危機による狂乱物価への対応です。早速全庁挙げて物価対策会議が組織され、教育庁は広報企画が幹事となって消費者教育を担当したわけですが、当時の行政マン達の真摯な姿が今でも鮮明によみがえってまいります。

翌四十九年、省エネ、低成長時代への変化とともに、行政全般を見直す風潮が起こり、高度情報化への対応も視野に入れながら、教育広報についても検討が加えられました。三本杉教育長の意向を受け、より見やすく質の高いしかも効率の良い行政広報を目指して、初めは本庁五誌の統合が話題になり関係課に何回も足を運びました。が結局三誌の統合で落ち着き、誌名も係原案の「教育福島」ですんなり決まったのを覚えております。

その後、歴代の担当者の斬新な発想と堅実な編集で、今日の充実した教育広報誌に成長したことは御同慶にたえません。今後のますますの御発展をお祈り致します。

 

価値ある教育情報誌

福島県立耶麻農業高等学校長

服部悦夫

 

育福島」誌が、創刊二百号を迎えたこと感懐深く、心よりお祝い申し上げます。

 

「教育福島」誌が、創刊二百号を迎えたこと感懐深く、心よりお祝い申し上げます。

私は、昭和五十九年四月より五ヵ年間、微力ながら本誌の編集に携わり、貴重な体験と幅広い知己を得ることができたのは誠に幸いでありました。

当時は、国挙げての第三の教育改革として「臨教審」を設置、生涯学習体系の改革を推進している時代でありました。教育評論家、教育関係団体、報道出版関係各社も挙って臨教審の審議内容を情報公開、教育情報誌は従来のスタイルを異に、軒並み一目で分る見やすい雑誌、写真、資料を多くした眺める雑誌へ変容普及させ、教育改革は国民総参加の大衆化を迎えていました。

本誌も県民、学校関係者とのコミュニケーションを図る唯一の公的教育専門誌として、その責務と役割を担って、毎月発行し教職員をはじめ多くの読者に愛読されておりました。時代のニーズに的確にこたえるビジュアルな広報誌作りは当然のことでありましたが、内容の充実と読者と編集者との交流も、また不可欠であるとの認識から、本誌はあくまでも眺める雑誌でなく、不易な読む雑誌、役に立つ雑誌にしてこそ価値があるとの思いが強くありました。このことは、本誌が本県教育の変遷を見続け語り続けその歴史の一時一時には、多くの偉大な教育者の師表で埋め尽くされていると同時に、これまでにどれほどの多くの先生方が、その時代にどんな事を考え、どんな教育、哲学の展開をされたであろうかを思い巡らす貴重な資料集でもあるからです。

本県教育の充実、発展のため読む雑誌、役に立つ雑誌を継承し、私たち読者にやすらぎと、勇気と光を与えてくれる価値ある教育情報を提供してくれることを期待するものです。

 

 

 


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