教育福島0200号(1997年(H09)01月)-024page

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通路の右側に「啓示館」が位置していた。(四中では図書室をこう呼んでいた)「啓示館」は、生徒がいつでも利用できるように施錠はしなかった。やや重い引き戸を開けると、すぐ左側にカウンターがあり、司書のT先生がいつもほほえみながら生徒たちを迎えてくださっていた。当時の私は、カウンターの前から整然と○番から九番まで配架された書架の一〇〇と九一一めざして、昼休み時間ごとに啓示館に通ったものだった。そしていつも指定席のように利用していた一番左側の机の二番目の椅子に座り、窓のとぎれにあるやや薄暗い書架の前で宗教やら哲学やら詩やらを読みふけっていた。

あれから二十五年余、授業参観のおりに図書館(啓示館という名前は見当たらなかったが)にお邪魔し、一万二千冊あるという蔵書の中から懐かしいあの当時の本のいくつかを捜し出し、貸出カードを引き抜いてみた。はたして「三年七組 渡部聡彦」の拙い文字が何名かの名前の中に残っていて、タイムスリップしたように中学生の自分がそれらの本の中に浮かび上がってきたのだった。

「僕たち中学生にふさわしい本が欲しい」という当時の気持ちが、国語教師となって、「君たち中学生に読ませたい本がたくさんある」という気持ちに変化したわけだが、もっと多くの人が図書室に親しめばいいのにという気持ちは当時からずっと持ち続けてきたと思う。

「雲のうしろには変わらぬ太陽の光がある」

「啓示館」で読んだロングフェラーの詩の一節を支えに、国語教師としてもっと頑張らなければならないと考えながら、小雨のあがった秋空の若松を後にした。

(西会津町立奥川中学校教諭)

 

思いつくままに

猪俣政建

 

「養護学校に入れててよかった」

 

「養護学校に入れててよかった」

一般の中学校から養護学校の高等部に入学してきた保護者の声。「こんなに学校が楽しいって言うんならもっと早くやればよかった」と言う声も。障害者のお子さんを学校に通わせる親の「苦労」が、このことばに集約されているような気がします。

些細なことでも傷つくような繊細な心持ちを持っていることが多い精神薄弱養護学校の生徒たち。折に触れ、昔受けた意地悪を思い出しては悲しんだり怒ったり、今の気持ちの訴え方がわからなくてそこらへんの机や教師にぶつかったり、楽しかった経験を思い出しては微笑んだり、褒められてその気になったり、と少々ストレートな表現をしてしまうときがあるかもしないが、様々な感受性でいっぱいの生活。互いにこういう人間的な感情のやりとりができるのはまさに学校というところでの集団生活のよさでありましょう。

そうして、腹一杯、泣いたり笑ったり、面白がったり楽しんだりしながら過ごす中で、生きる力を身につけ、作業学習や職場実習を積み重ねて、それぞれ企業や施設へと巣立っていく養護学校の生徒たちです。

ところで「健常者」の学校の子供たちは、不登校どころか自・他の生命すら保てない「なんでもあり」の、ほとんど当惑するばかりの状況のなかで、かといって学歴社会も捨てきれず、必死の思いで「がんばって」いるように思います。

ところが、世の中では、高級官僚や大会社の人、それから選挙で選ばれた人たちまでが、汚職、背任、贈収賄、職権乱用などというものにまみれているようです。たいして破廉恥なことと思っていないようであるし、それが日常的であったり、往生際が悪いところまで、よくある「時代劇」です。

けれども、もともとこの人たちのことを世間では、「がんばって」出世した人、「出世するような人はさすが違う」、とかなんとか言ってもてはやしてはいなかったでしょうか。いわば、「健常者中の健常者」であると。

このように、世の中のトップに躍り出たがるだけの「がんばり」を成し遂げた人には、「自分中心」というおまけが伴う仕組みがあるようです。自分が蹴落とした他者の存在に無頓着な、そういう少数のひとだけを評価する社会は不公平のにおいがします。

そんな「がんばり」からはほど遠い、ただの健常者。そういうひとに温かい社会は、きっと障害者にも優しい社会にちがいありません。

(県立会津養護学校教諭)

 

 

 


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