教育福島0200号(1997年(H09)01月)-038page

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こころに残る一冊の本

 

わが青春時代の指針

県文化センター館長

新妻威男

 

ッパの地図を広げながら、いつの日かライン河を筏で下りたいと夢見ていた−。

 

中学生の頃、私はヨーロッパの地図を広げながら、いつの日かライン河を筏で下りたいと夢見ていた−。

さて、『ジャン・クリストフ』という小説の存在を何によって知ったのか、今では記憶も定かでないが、昭和二十七年、高校三年の夏−町で『ジャン・クリストフ』を持っている家は一軒しか無かったので、友人を介してそれを借りようとしたが、結局、果せなかった。

このような中、『ジャン・クリストフ』三巻本の第1巻が同じ年の十一月に発売された。私は大学受験準備の最中であったが、この本を無性に読みたくて、父に「一冊三百五十円、合わせて千円を下さい」と言って頭を下げた。父はウーンと唸った後、黙って千円札を出してくれた。この時、高校生の奨学資金は、月額六百円であった。

第2巻目が同じ年の十二月半ばに出て、これも夢中で読んだ。この時期は入試のため寸暇を惜しんで勉強すべきであるのに、小説読みにウツツを抜かしている生徒が受かる筈もない。次の年の春三月、「サクラチル」ということになって約半月後に第3巻目が出た。

『ジャン・クリストフ』を読み終えて、私は、激動の時代に傷つきながらも直向きに生きるジャン・クリストフに心を揺さぶられ、自分も、かく生きたいものだと胸中期するところがあった。その後を顧みると内心忸怩たるものを禁じ得ないが、この時期、ジャン・クリストフは、私の生き方の指針となった。

こんなことがあって、二十数年後にドイツを訪れた時、私は筏ならぬバスに乗って、ライン河沿いにオランダのロッテルダムまで下ったことがある。ボン附近で初めてライン河を見た時、思わず口をついて出たのは、『ジャン・クリストフ』の冒頭の一節(河の水音は…)であった。

わが青春の″一冊の本″とする所以である。

本の名称:ジャン・クリストフ

箸者名:ロマン・ローラン(豊島与志雄訳)

発行所:新潮社

発行年:1巻一九五二年十一月十五日

2巻一九五二年十二月十五日

3巻一九五三年四月五日

 

わが心の大地

安達町立安達中学校教諭

服部朋子

 

○生きのびて三十八度線越えし日のソウルの雨をいまだ忘れず

○生きのびて三十八度線越えし日のソウルの雨をいまだ忘れず

〇子ら連れて着のみ着のまま引き揚げし母は苦難を多く語らず

この二首は、数年前朝日の歌壇で評をいただいた私の拙い歌である。「大地の子」の舞台の一部となった中国東北部(旧満州)は、私が小学校入学前まで過ごした大地であり、また母が私たち姉妹を命がけで連れ帰ってくれた苦難の大地でもある。軍属であった父がシベリアに抑留され、同じ官舎の婦女子だけが、前後に一人ずつ引率者がついて祖国をめざしたのである。

長くつらい道のりであった。母は二才の妹を背負い、私の手首に結びつけた紐を自分の腰に結んでいた。日中は林の中に潜み、ソ連兵に見つかっては地べたに野宿した私の断片的な記憶を、この本は蘇らせてくれた。

昭和二十年の秋、三十八度線を越えソウルにたどり着いた日は、雨だった。寒さ凌ぎに私に着せられた大人の服の両袖から、雨が滴り落ちた。もう逃げなくてもよいというその日の安堵感をいまだに忘れない。

「大地の子」の意味するものは深く悲しい。しかし、養父の愛、主人公の妹への愛と力強い生き方が救いとなった。戦争という愚かな行為が、一番力の弱い老婦女子に大きな傷跡を残した。この本はそれを余すところなく語っている。

主人公と妹の苛酷な運命からすれば、比較にならないが、自分の経験と重ね合わせて読み進めた。

折りしも、中国残留日本人孤児の人たちが、肉親捜しに来日し、その殆んどの人が希望を果せないままに、日本を離れるニュースが報道されていた。戦後五十一年、手掛りは年々薄れていく。彼らの苦悩を考える時、胸が潰れる思いだ。戦後は終わっていない。本書の投げかけているものは大きい。

本の名称:大地の子

著者名:山崎豊子

発行所:(株)文藝春秋

発行年:初版一九九四年一月十日

本コード:ISBN四-一六-七五五六〇一-四

 

 

 


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