教育福島0201号(1997年(H09)02月)-021page
私が分校に赴任したときのことは、今でも鮮明に覚えています。「分校で教師をやってみたい」という、自分の夢が実現した喜び。見知らぬ東白川の地でやっていけるのかという心細さ。分校を一人で支えなければならないという重圧。初めて一年生を担任する戸惑い。期待と不安が交錯した気持ちを抱えての赴任でした。
しかし、分校での生活が始まると、そんな気持ちを感じている時間はありませんでした。毎日、毎時間が手探り状態で、無我夢中の日々は、瞬く間に過ぎていきました。また、二人の子供たちは、何とか私を助けようと、小さな体でがんばってくれました。その姿を見ていると、わが子のようにいとおしく思え、心が和みました。さらに、地域の方々に温かく迎えられ、様々な援助をしていただきました。特に、保護者の方々とは、家族ぐるみのお付き合いでした。「何食べてんだか。栄養つけてがんばって」と、夕食をごちそうになることもありました。数多くの心温まる交流に、私もいつしか、地域の一員として、分校の教員として生きることに、喜びを感じ始めていました。
あれから、早いもので、三年の月日が過ぎようとしています。今年度は、児童数が五名となり、教員も二人体制となりました。心待ちしていた相談相手もでき、とても充実した日々を送っています。しかし、この分校を取り巻く状況も、時代の波にあらわれて厳しくなってきました。分校の未来を思うと、心が痛み、真剣に考え込んでしまいます。豊かな自然に抱かれ、地域の人々に見守られ、男子も女子も、幼い子も小学生も一緒になって地域をかけ回る。失われつつある遊び集団が、ここには残っているのですが…。
最後に、私が印象深い一コマを。地域の子供たちが分校に集い、車座になって楽しそうに話す姿を、私は教室の窓から、幸せな心地で見ていました。真っ赤な夕日が子供たちを照らし、その笑顔は輝いていました。いつまでも、その光景をながめていたかった…。「心健やかに、たくましく育て」夕暮れ迫り、一番星がきらめく中、帰りゆく子供たちの背中に、私はそっと願いました。
さて、そろそろ写真を思い出のアルバムに戻して、ぺンを置くことにします。楽しい思い出で、アルバムは、まだまだふくらみ続けそうです。
(矢祭町立東舘小学校高野谷地分校教諭)
二十八年ぶりの同級会
橋本寿子
私の卒業した小野中学校は、いわき市と郡山市の中間に位置する小野町にあり、前身は小野新町中学校でした。昭和四十一年に小野新町中、飯豊中、夏井中の三校が統合、小野中学校として歩み出しましたが、第一回生は、名称のみの卒業生となりました。その年の四月、一、二年生は旧校舎に残り、私たち三年生だけが、新校舎へ移り、三種別々の制服に身を包み、肩を並べて学んだ私たちが事実上の小野中一回卒業生と皆思っています。一組から五組が二階、六組から十組が三階、計十組、まだプールや体育館もありませんでしたので、朝礼や集会は屋上や校庭で行われ、夏の暑い日射し、コンクリートの照り返しに、貧血を起こし、倒れる生徒も出るといった現状でした。しかし、不便な中にも、友達が次第に増え、考え方などに大きな影響を受けた時期でもありました。整地中の校庭にはフェンスもなく、部活動ではボールが坂の下に転がり、探すのに苦労していた友、急な坂道を重いカバンを肩にかけ、語り合いながら登下校した日など、時折母校へ足を運ぶ度に、遠き日の思い出が蘇ってきます。
今度二十八年ぶりの同級会開催をという地元有志に賛同、十一月二十八日に向け、半年前から準備を進め、北は北海道から南は九州、海外まで散らばった友の消息を調べ、四百二十五名の同級生と恩師への通知、当日は、恩師五名、同級生百十五名の参加があり、無事開催する事ができました。卒業以来初めて会う友、受付もそこそこに懐かしい顔、声に手を取り合い頬を紅潮させ話し合う姿、中学時代の面影を残しながら、(中には以前の顔を思い出す事が不可能な程変貌を遂げた方もいましたが…)時折、白髪の混じった頭や、目尻に皺の入った顔、もう四十を過ぎた大の大人が、恩師の前では、まるで、中学生の様なあどけない照れ笑いをしていました。先生方も、現職で活躍されており、話の中から、当時のユニークな楽しい授業が思い出され、夢に胸を膨らませていた友の顔が浮かびました。
私の勤務する園舎は、旧中学校跡地に建ち、昔の校庭の木立ちがいくつか残っており、園児たちの遊ぶ姿