教育福島0201号(1997年(H09)02月)-023page
導要領に環境問題が加わり、私の担当する化学にも関連教材が少なくない。以前から部活動や文化祭の研究テーマに『環境・公害』をとり上げてきたが、にわかに環境問題の出版物も増えて来た昨今である。「豊かさ」のもたらす公害を読む時、本当の幸せとは何かということを、深刻に問わざるを得ない。
ここ数年、脳裏を離れないのが『森』のことである。母方の祖父は九十歳で一人で山仕事に行き、ころんで死んだ。父も間もなく癌で逝った。末期の痛みに耐えながら、バイクで山を一廻りすると清々して生き返る、と言っていた。山と樹木を愛した祖父や父は、先祖代々の山を、美しい森を継承することが、子孫だけでなく大きく地球のためだと知っていた。
山を粗末にしてはなんねえ。生態系を学ばなくても、彼らは森が生きて人々の暮しを支え、自然環境を守ってきた恩恵を無言で説いた。緑の遺産を破壊はできない。
間もなく百周年を迎える相馬高校は、ヒマラヤスギやメタセコイアが三階の化学室より高い。夕陽とともに実験している時など、ふと賢治の童話の森を感ずることがある。時間を突き抜け、イーハトーヴの風が窓から入って来る。棚の中に並ぶ古いギヤマンの実験器具をながめながら、自分の「生」を見つめる。森や海や、地球の生物のいのちを想う。
美しい自然、透き通る大気の中ではボロ衣もビードロのように輝く、と賢治は書く。「ほんたうの幸せって何だろうねえ」全き幸せを願う賢治の宇宙観は今も心を打つ。
美しい地球を守ること、環境問題は、今や人類の文化文明にとって必至の課題である。同時に生きていく上で、人間にとって大切なものは何か、「生」の根源にかかわる一人一人の哲学の問題でもある。次代に対し我々に課せられた責任は大きい。
(県立相馬高等学校教諭)
マイ・コンピュータ
工藤裕也
今まで使っていたノートパソコンが急に壊れ、修理のために行った販売店でカルチャーショックを受けた。今のパソコンは、テレビを見ることができ、CDも聞け、カラオケもできるのである。おもわず衝動買いをしてしまった。後日、品物が届いてまたもや驚いたことがあった。本体に添付されているマニュアル本が実に薄いのである。パソコンが家電製品に近づいてきていることを改めて感じた。さらに、ウインドウズなので画面にいくつかの窓を開き、いくつかの作業を同時にすることができる。たとえば、画面に、テレビの窓を開き、次にワープロの窓を開けば、テレビを見ながらワープロを打つことができる。仕事と娯楽が両立できるというわけである。しかし、実際に使用してみると「二兎を追うものは、一兎も得ず」のことわざのとおり、画面の中の小さなテレビに気を取られ、さっぱりワープロの方は進まない。頭で考えていたように実際はうまくことが運ばないことをつくづく感じさせられた。
パソコンは家電製品としてだれにとっても身近で、便利なものになってきている。授業でパソコンを使ってみて、子供たちの機械操作の慣れの早さには驚いてしまう。
反面、パソコンを簡単に受け入れてしまう子供たちをみて、今後、育てていかなければならないことを感じることがある。それは、確かにパソコンは魅力的であるが、結果が画面に現れるまでのプログラムが分からず、その場限りの操作になってしまわないか、また、頭の中だけでの作業が多いため、全部を分かったつもりでもごく一面的なとらえ方になっていないかということである。
以上のような疑問は子供たちの日常の生活の行動の中にも見い出すことがある。もっと広い視野から全体をとらえたり、多面的な見方から自分の行動を振り返ったりするようになれば、幅のある行動がとれるようになるものと考える。
わたしたちの中学校にコンピュータが導入されて四年になるが、情報や価値観が多様な状況の中で果たして、子供たちに正しい判断力を身に付けさせることができたのだろうか。日頃の授業や学校生活の中で以上の様な疑問を意識しながら指導をしてきたかどうか反省するべき点は多い。
コンピュータに操られないためにも、まずは、私自身の総合的な判断力を養っていかなくてはならないと考えている。
(福島市立渡利中学校教諭)