教育福島0203号(1997年(H09)06月)-024page
多くのことを先輩の先生方に教えていただいたことが今でも印象に残っています。
私自身が部活動を指導する上で大切にしていることは、結果は勿論ですが、結果のみならず、指導する過程、そして指導者と生徒、生徒同士の人間関係です。
また、指導に当たっては、「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」という言葉を大切にしています。春に大輪の花を咲かせようとするならば、寒い日に根を張る努力をする。結果を残すには地道な練習があってこそ華やかな舞台に立てるもの。どんなきれいな花を咲かせても、その地道な過程で手を抜けば、風が吹いたり雨が降ったら飛ばされ流されてしまう。そうでなく、プレッシャーの中でもしたたかになおかつ力のあらん限りを発揮する選手になってほしい。どんなアクシデントに見舞われても、指導者の言葉を思い出して立ち上がる。立ち直る。それをばねにしてまた大きく成長できる選手を育てたいと願っています。
私は指導者として最低限、陸上競技に対する根本的な考え方や愛着、そして楽しみを生徒たちに教えていきたいと思っています。
また、指導者というものは、洗いざらしのハンカチにアイロンをかける立場だと思います。ハンカチは選手です。選手にアイロンをかける時は片手ではできません。指導者はアイロンを持っているので、もう一つの手を出せません。いろいろな人に協力してもらい、ハンカチの四隅を引っ張ってもらいます。このことは私たち教師にもいえることだと思います。
とにかく、陸上競技が大好きな一人の教師が一生懸命やっているんだという気持ちで、今日もグランドに立たせてもらっています。
(浪江町立東中学校教諭)
校歌
渡辺郁哉
勿来高校へ着任してから十一年目の春を迎えた。ひところの生徒たちは、集団を組み、体全体で若さを表現していたと記憶する。近ごろは、嬉々として携帯通信機器をもてあそぶ。他との意思疎通はさぞ円滑なのだろうと期待するが、どうも仲間内に限られているようだ。小集団は多いが、束ねる力は育ちにくい。饒舌なのに、自分をうまく表現する術は十分でない。これらのことが影響してか、呼名に対する返事とか校歌斉唱の声量にとみにもの足りなさを覚えるようになってきた。
自らを世に向けて表現するには、自己の存在に対して自信や誇りを持たねばならない。三年間あらゆる場を通して自分探しの手助けをするのが務めと思っている。本校で学ぶことの意義をわずかでもくみ取ってもらいたいとの願いからする校歌の内容学習もその一環である。新入生への最初の授業を利用して行う。
草野心平作になる詩の中でも、「炭田と松と桜と」は学校の来歴を語る上で欠かせない。桜は、源義家歌「吹く風をなこその関と思へども道もせに散る山桜かな」と響き合うことを知らせる。炭田については、石炭を見たことのない生徒に逐一説明し、勿来高校の母体ともなったことを強調する。そこで紹介するのは、かつて編集に携わった『創立四十周年記念誌』に寄稿された元定時制主事、岡崎興氏の一文である。
「教育の彷徨時代に生れた分校は、当然地域の人々には高校教育の内容がどんなものであるか分らずただ夜学と呼んでいた。しかし入学生の大半が炭礦従業員であったが、向学心が強く、昼働いて疲れた身体で、夜元気な姿で登校して来るのには心を打たれた。こういう環境の下で行われた教育は、いつしか師弟の間に温かい絆ができ授業も面白いように進んだ」
ここに私は、学ぶという行為を仲立ちとして、人格と人格が感応し合い、ひとつ上の高みへと進む様を見る。校歌学習は、勉強に対する先輩方の真摯な眼差しを生徒へ知らせ、自身を省みながら今後の目標を立てさせる契機となる。同時に、授業に臨む私の心がまえを伝える場にもなっている。そして、相手の名を呼ぶことにより、それとの一体感を味わったという万葉びとに倣い、「勿来、勿来、われらが母校、おおわが勿来」と読み上げて一時間を終える。
創立五十周年を迎えるいま、草創期に思いを致し、生徒とともに学ぼうとの心を抱きつつ教室へ向かう。
(県立勿来高等学校教諭)